◆ 2024年度 三田祭論文要旨

「物価と経済発展 ~低賃金を生み出す経済構造に関する計量分析~」

第28・29期生

はじめに

 世界を見渡すと、物価の上昇率の高い国ほど世界幸福度が小さく、相対的貧困率が大きいという関係が見られるように、物価が上昇することによって悪影響がもたらされる場合があります。日本では、2022年に発生したロシアによるウクライナ侵攻の後、物価が上昇を続けており、実質賃金の低下が発生しています。また同時に急激な円安が進み、昨今のドル円レートは150円台周辺を記録しています。このように、物価の変動は為替レートを始めとして、金利、賃金、株価などさまざまな要素と影響し合っています。そのような状況の中、物価上昇は人々から注目を集めると同時に今までの対策に対する疑問も広がっています。
そこで本論文では、物価の変動が経済にもたらす影響を明らかにするために、物価が経済発展に与える影響の経路を整理した上で、物価、賃金、金利、為替レート、株価の5つに注目しながら低賃金を生み出す日本の経済構造について、労働の価値観を明示した効用関数などを用いた分析も行い、それらの分析結果をもとに実質賃金の上昇をもたらす物価に関する政策の検討を行いました。

第1章 物価と経済発展に関する観察

 本章では物価およびその他いろいろな価格と経済発展の関係について概観しました。
第1節では、物価上昇に対する問題意識および物価と経済発展の関係について概観しました。物価高騰や低賃金は全世界で注目されており、先進国と発展途上国のそれぞれにおいても、物価高騰や低賃金が問題となっていることが分かりました。また、日本においても物価高騰は注目されており、多くの人々が物価対策に対する政府の対応は不十分であると感じていることを指摘しました。さらに、物価上昇は賃金上昇に影響を及ぼしている可能性があることを確認しました。以上から、物価高騰や低賃金は世界的な問題であり、世界そして日本の経済発展に重要であると考えられます。
第2節では、物価と経済発展の関係を分析するにあたって、物価以外の経済における様々な価格がどのような経路を通じて経済発展に影響を与えているかについて検討しました。一般的な生産関数において、生産は技術水準、資本ストック、労働によって決定されます。今回の分析では輸入価格の変化による生産活動への影響も考慮し、輸入による原材料投入を加えて考えることにしました。これらの生産要素の価格上昇は各生産要素の調達を困難にすると考えられます。それぞれの生産活動と価格の関係については、資本ストックには金利と株価、労働には賃金、原材料投入には為替レートが影響することを確認しました。以上から、いろいろな価格の変化は生産要素ぞれぞれの変化を通じて生産面から経済発展に影響を与えていると考えられます。

第2章 いろいろな価格の変化の要因

 本章では、いろいろな価格の決定構造を推定し、その変化の要因を明らかにしました。
第1節では、金利の変化の要因についてIS-LMモデルを用いて分析しました。消費関数と投資関数を推定し、そこからIS曲線を導出しました。また、貨幣需要関数を推定し、その結果からLM曲線を導出しました。導出したIS曲線とLM曲線を用いて金利の均衡点を求め、金利の変化の要因分解分析を行いました。その結果、金利の変化には貨幣供給量の変化とコロナウイルス規制の緩和の影響が大きいことが分かりました。
第2節では、マクロ経済学のAD-ASモデル分析を行い、財・サービスの価格変化の要因を明らかにしました。この分析にあたって、賃金の増加により就業者数及び物価が増加する関係と、また就業者数の増加によりGDPが増加する関係をそれぞれ推定しました。さらに、最近の価格上昇期である2021年第1四半期から2022年第1四半期の消費者物価指数上昇幅の要因分解分析を行うことで、物価の上昇は貨幣供給の増加による影響が大きいことが分かりました。
第3節では、労働者の行動と企業の行動のそれぞれの視点から労働の供給曲線と需要曲線を推定しました。また、日本とOECDの平均のそれぞれの労働の供給曲線と需要曲線を求めた上で、日本とOECDの平均の労働市場の均衡点を算出し、均衡点の違いについて考察を行いました。その結果、日本の低賃金の主な原因は労働の供給側にあるということが分かりました。さらに、労働者の個人の能力に基づく賃金関数(ミンサー型賃金関数)を推定し、経験年数と教育年数の限界効果を分析することで、日本の賃金制度が年功序列制から能力重視型へと移行しているということが分かりました。
第4節では、為替レートの変化を説明する基本理論に基づいて、円ドル為替レートと通貨の過小評価度の決定構造を明らかにしました。また、推定した式を用いて、円ドル為替レートおよび円の過小評価度の変化の要因分解分析を行い、最近の円安と円の過小評価の主な原因はアメリカとの金利差の拡大であることが分かりました。
第5節では、まず、東証株価指数を被説明変数、金利・為替レート・景気動向を説明変数として用いた重回帰分析を行い、金利・為替レート・景気動向が有意かつ理論と整合的な影響を及ぼすことが明らかになりました。さらに、東証33業種別株価指数を被説明変数に用いた重回帰分析によって、各産業における金利・為替レート・景気動向、国際情勢、不景気、自然災害による株価への影響の大きさと、その大きさの信頼度が各産業で異なることが明らかになりました。
第6節では、まず、G7の国々の金利・物価・賃金の推移から、日本の金利水準・物価上昇率・賃金上昇率がいずれも低いこと、日本と他のG7の国々の間で金利・物価・賃金に差が生じていることを観察しました。次に、2022年の日本とアメリカの金利・物価・賃金の差についての要因分解分析を行い、金利・物価の差には貨幣供給量が、賃金の差には実質GDPが大きく関わっていること、またいずれにおいても日本とアメリカの経済構造の違いが影響していることも分かりました。
第7節では、雇用形態・性別・地域による賃金格差に焦点を当て、格差を表す指標である平均対数偏差(MLD:Mean Log Deviation)を用いて日本社会における賃金格差の変化の要因分解分析を行いました。分析の結果から、日本における賃金格差は一時的に縮小していたが、近年再び拡大しており、その要因としては雇用形態別格差の影響が大きいということが明らかになりました。

第3章 いろいろな価格の経済発展への影響

 第1節では、OECD諸国における物価・賃金・金利のそれぞれと経済発展の関係を図示した上で、それらの関係式を推定しました。その結果、それらの関係がいずれも逆U字型となり、それぞれの価格には経済発展に望ましい上昇率あるいは水準が存在することが分かりました。そして、経済発展における物価上昇率・賃金上昇率・金利水準それぞれの最適水準を導出し、日本のそれぞれの現在の値は、先進国の最適水準に比べて極めて低いことが分かりました。
第2節では、生産関数の推定によって金利、為替レート、株価と経済発展の関係を分析しました。まず、投資率と金利、為替レート、株価の関係を分析し、資本ストックに与える影響を検討しました。その結果、投資率に対して金利は負の影響を、為替レートと株価は正の影響を与えている事が分かりました。また、全要素生産性と金利、為替レート、株価の関係も分析した。その結果、全要素生産性に対して金利は正の影響を与えていたが、為替レートと株価は個々の産業への影響が相殺されていることが分かりました。
第3節では、労働供給行動に関する効用関数のモデルを説明し、賃金上昇率と完全失業率を変数としたOECDの人々と日本国内の人々のそれぞれにおける現在の効用関数を推定しました。推定により得られた係数を比較した結果、日本はOECD諸国と比較して賃金上昇率と完全失業率の間の代替弾力性が小さいことがわかりました。このことから、日本の人々は労働供給行動においてOECD諸国の人々よりも就業の維持を重視しており、安定的な労働を求めていることが明らかとなりました。

第4章 賃金および物価水準に関する政策の検討

 本章では、いろいろな価格の経済発展への影響について分析し、それぞれの関係について検討しました。
本章では、本論文が行った様々な分析において推定した式の関係を整理することによって、本論文と既存の先行研究との違いを明らかにしました。その上で、OECD諸国におけるインフレの特徴に基づいてクラスター分析を行い、OECD諸国についてグループ分けを実施し、それぞれのグループにおけるインフレ政策の特徴を整理しました。その後、日本人の賃金水準の引き上げにつながる政策を検討しました。
第1節では、物価に関して先行研究が示してきたことの整理と、本論文の第2章から第3章の分析において明らかとなった指標間の関係の整理を行いました。それにより、分析の対象範囲が限定的である先行研究と異なり、本論文では経済における様々な価格と経済発展について分析を行ったことで、経済全般にわたる各分野が相互に影響し合う関係を捉えていることが明らかになりました。
第2節では、OECD諸国におけるインフレの特徴に基づいて、クラスター分析によりグループ化した各グループからそれぞれ代表国として日本、アメリカ、フランスを選び、それらの国々で行われてきた政策について検討しました。日本の金融政策は物価にあまり影響を及ぼしていないのに対しアメリカは直近のコロナ禍における金利引上げ政策がインフレに効果的でした。フランスではコロナ禍以前は政策に関わらず低いインフレが続いていました。これらから各国の物価政策の内容と結果は様々であることが分かりました。 第3節では、日本の人々の賃金水準の引き上げにつながる政策を検討しました。最初に物価抑制のための金融政策と名目賃金上昇のための財政政策の効果を算出し、財政政策によって大きな効果を得るには多額の国債発行を伴うことが明らかとなりました。そこで、日本と他の先進国の差に注目し、日本が金利、エネルギー自給率、食料自給率が極めて低い状態から脱する政策について検討しました。OECD諸国並みのエネルギー自給率と食料自給率を達成し、エネルギーや食料の国際価格の上昇による国内物価の上昇を抑えることにより、景気対策による金利引下げの大きさを小さくし、その期間を短くし、最適な水準を維持していくことが、より高い賃金上昇を引き起こすことが明らかとなりました。 。