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慶應義塾経済学会『三田学会雑誌』と経済学会のあゆみ昭和63年2月『三田学会雑誌』は創刊80年目となる。この機会に『三田学会雑誌』と経済学会の歩んできた道を振り返ってみたい。とは言うものの,限られた紙幅の中で80年に及ぶ活動の学問内容にまで立ち入って顧みることはほとんど不可能であろう。そこでここでは,『三田学会雑誌』と経済学会の運営形態の変遷を中心にみてみることにしたい。 『三田学会雑誌』と経済学会の由来を考えるとき,この二つの組織を一体のものとして扱うことはできない。現在は,経済学会が三田学会雑誌の発行者であるが,初めからそのような形であったわけではない。元来,両者は別々の組織であり,それぞれ別の歴史をもっていた。 『三田学会雑誌』の創刊は明治42年(1909)2月であり,発行機関は「三田学会」となっている。これより前,明治30年代には塾大学部学生を中心として盛んに各種の学術研究団体が設立された。それらの団体のうち,三田法学会(明治32年頃創立),三田政治学会(明治36年創立),理財学会(明治36年創立),三田文学会(明治32年再興)が共同し「三田学会」という発行者名の下に創刊したのが『三田学会雑誌』の始まりである。従って,現在のように経済学関係のみの雑誌ではなく,大学部各科共通の学術誌であった。また学生自治組織が発行していた点でも今日の姿とは異なるものであった。なお,創刊当時の「発行兼編集人」は神戸与作,発売所は築地の山書店であった。また東京の有斐閣や東京堂を初めとして,京都・大阪・九州・台湾・清国の14店が取次店となっていた(以後の発行・編集者については文末に整理して示した)。 その後,『三田文学』の発刊に伴い文学部関係の論文は分離独立し,5巻4号(明治44年10月)からは,『三田学会雑誌』は経済・政治・法律関係を中心とするものとなった。また,この変化に応じて8巻2号(大正3年3月)からは,表紙の題名の下に「経済・政治・法律」と,所収分野が書かれるようになった。さらに同年の8巻6号になると「三田学会」に代わって「理財学会」が発行機関となり,これより経済学部教員の研究発表機関としての性格が強くなっていったようである。しかし「理財学会」発行となってからも15巻(大正10年)までは,表紙では相変わらず「経済・政治・法律」という広い守備範囲が謳い続けられていた。この所収分野の記載が表紙から消えて,代わって「慶應義塾経済学部機関」と書かれるようになったのは,16巻1号(大正11年)からであり,これより名実ともに経済学部中心の雑誌となったのである。 ところで,発行機関の「理財学会」は,先に述べたように明治36年に設立されたもので,理財科学生の研究団体であったが,大正時代の後期には会員の関心の分化に伴い,その学会活動は次第に縮小してきていた。一方,この関心の分化に加えて,大恐慌や満州事変以降の困難な時局に対処するためもあり,昭和6年以降,各種の研究団体が経済学部教員間に結成された。世界経済問題研究会(昭和6年設立),経済史学会(昭和8年設立),経営学会(昭和9年設立),労働科学同攻会(昭和16年設立)などがその主なものである。こうした動きの中で,経済学部・高等部・商工学校に所属する経済学関係の教員全体の学会として昭和11年3月26日に創立されたのが慶應義塾経済学会である。 同会は,この後,戦時下の状況の中で上記の各種学会活動を吸収統合し経済学関係の学会活動を担うものとなった。例えば,経済史学会は昭和12年より機関誌として『歴史と生活』を発刊していたが,昭和19年に同会の活動は経済学会に吸収され,『歴史と生活』は『三田学会雑誌』に合体したのである。また,『三田学会雑誌』の発行機関も,昭和19年の38巻3・4号合併号までは理財学会であったが,同年の5・6号合併号では「慶應義塾経済学部研究室」となり,これにより大正3年以来続いていた理財学会発行の形は終わったのである。 さて,『三田学会雑誌』は戦争の激化により昭和19年7月の38巻8号をもって休刊のやむなきに至る。同誌が再刊され39巻1号が戦後の最初の号として出たのは,昭和21年7月である。そしてこの時からは「慶應義塾経済学会」が発行所となっており,現在までつながる『三田学会雑誌』と経済学会の関係が定まったと言えるであろう。 一方,経済学会は,戦後の悪条件にもかかわらず昭和21年には学会活動を本格的に再開し,隔週,後には毎週一回の頻度で報告会を開いていた。こうした活発な活動は多くの成果を生み出し,昭和20年代の『三田学会雑誌』の誌上を飾ることになったのである。また,昭和32年の商学部創設に伴い,多くの経済学会同人が三田商学会に移籍し,これ以後,経営学,会計学などを中心とする商学系部門の研究は『三田商学研究』に掲載されることになった。これは経済学会の活動の大きな変化であったが,以来,三田商学会と経済学会は緊密な関係を保っている。 その後の経済学会は,戦後のこの時代に築かれた研究体制をもとにして展開してきたと言える。そうした中で,学会活動の活発化に伴い,『三田学会雑誌』のみでは研究成果を世に問うのに不十分となり,新たに年報の発刊を企画し,昭和33年から46年には毎年『経済学年報』を刊行した。この『経済学年報』には,『三田学会雑誌』の倍の長さの論文をのせることができ,紙幅の関係から『三田学会雑誌』に掲載しにくい論文の発表の場として大きな意味をもっていた。また,昭和34年からは『経済学研究叢書』を刊行し,昭和57年までで14冊の経済学会会員の著書を世に送り出している。また,昭和38年には欧文雑誌Keio Economic Studiesを創刊し,毎年2号の刊行を現在に至るまで続けている。さらに,昭和41年から43年にかけて,『経済学方法論の諸問題』,『日本経済の近代化』,『後進地域の経済開発』というテーマを取り上げて経済学会シンポジウムを開催し,その成果を刊行したものも新しい試みであった。 昭和40年代の学園紛争を経て50年代にはいると学問の一層の専門化という事情もあり,様々な面から経済学会の活動や『三田学会雑誌』のあり方が問い直された。こうした傾向の中で,昭和53年に『三田学会雑誌』は長く続いていた月刊を隔月刊に改め,誌面の充実を計ったのである。また,昭和56年には,経済学会シンポジウムと経済学会大会を相互に隔年に開催することを決定した。前者は毎回統一テーマを決定し,2・3日にわたり十分な討論を行うことを目的としたものであり,昭和51年の第1回以来計4回のシンポジウムを行った。テーマはそれぞれ,第1回「経済学と労働」(昭和56年),第2回「マルクス・ケインズ・シュンペーター―現代の視点から」(昭和58年),第3回「経済学における発展の問題」(昭和60年),第4回「私の経済学ベスト教育プログラム」(昭和62年)であり,経済学部内の個々の専門分野の境を越えた討論の場として意義深いものであった。一方,経済学会大会は塾内外の経済学関係の第一人者を招いた講演会であると同時に,経済学部教員並びに経済学部出身の研究者の間で広く学術的交流並びに親睦を計ることを目的として全く新たに企画されたものであり,昭和57年の第1回以降,これもすでに4回の大会が行われている。 昭和60年代にはいると,50年代の経験を踏まえて『三田学会雑誌』の内容・経済学会の活動を質的にさらに一層充実させようという意向が会員の間に強まった。こうした状況の中で昭和63年からは『三田学会雑誌』は年間通常4号,特別号2号,別冊1号の刊行体制をとり,コメント制を導入することになった。また経済学会シンポジウムは一応の成果を挙げたものとして終了し,平成元年からは経済学会コンファレンスの企画がはじまる。 以上見てきたように,『三田学会雑誌』と経済学会の歴史は,組織の点では決して固定的なものではなく,そこに集う人々や時代の要求・制約にしたがって柔軟に変わってきたと言ってよいであろう。 (昭和63年) 本ページの内容は「別冊 三田学会雑誌」に掲載されていたものをそのまま転載したものです。 『三田学会雑誌』歴代編集代表者一覧
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