温故知新の会
私設サイト

開設:1998年5月28日
更新:2004年1月1日
(所属のみ2015年1月4日更新)
はっきりいって内輪ネタのコーナーです。あしからずご了承ください。

 温故知新の会とは、中里透氏(現上智大学経済学部准教授)、堀宣昭氏(現九州大学大学院経済学研究院准教授)、江口匡太氏(現中央大学商学部教授)、土居丈朗(現慶應義塾大学経済学部教授)をはじめとするメンバーが、東京大学大学院経済学研究科在籍中に、自らの研究や経歴等に関連のある政治、経済、文化ネタ(特に、時代と地域は戦後・日本のものが多い)を同研究科大学院生第6室(以下「6室」)で披露し、語り合い、そしてまた自らの研究に役立てようとするグループです。組織や定期的な会合は設けていません。名称は堀宣昭氏の命名により、「温知会」とも略されますが、故渡辺美智雄氏(元外相)が自民党内に派閥横断的集団として組織した会と同一名称のため混同されます(これについてご存知の方は、すでに我々「温知会」メンバーと知識を共有しているといってよいでしょう)が、何ら関係はありません。1998年3月をもって、主要メンバーが東京大学大学院を去り、実力のある後継者がいなかったこともあり、事実上表立った活動を停止して今日に至っています。
 このサイトの背景は、温知会の「若さ」と「さわやかさ」(決して「クリーン」などとは言わない)をイメージしています。

 当時の大学院生の中には、温知会の趣旨には賛同できず、いや反発した方々は、「反温知会」と呼ばれ、温知会のネタ(「温知ネタ」と略されます)に公然・隠然と嫌悪感を示しておられました、ということも付記しておきます。

 温知ネタは、最盛期には6室にある黒板を埋め尽くしたほど公開されました。これまでの温知ネタは、保存のための整理中で、現在土居が管理しています。温知ネタは、インターネット上で公開するとアブないネタが多いため、今後サイト上で公開する予定はありません。

 現在のところ、主要なメンバーはウェブサイトを持っていないため、ここに温故知新の会の私設サイトを設けることとしました。ここでは、編者(土居)が勝手に選んだ「温知ネタ」を集め、公開してゆきます。


1999年度大学入試センター試験で見つけた「温知ネタ」

日本史B第5問(日本史A第4問) 問8
下線部(c)に関連して、1960年の日米相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)の締結と安保改定反対運動について述べた文として正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。

@ 新日米安保条約の批准が、衆議院で強行採決された。
A 新日米安保条約の批准案の衆議院通過後ただちに、安保改定に反対する運動は沈静化した。
B 新日米安保条約の締結を祝って、アメリカ合衆国の大統領が来日した。
C 新日米安保条約を成立させた結果、岸信介は長期政権を維持することになった。

政界… いや正解は
河合塾 - 99年度 大学入試センター試験 正解・配点」の日本史B第5問解答番号36 にあります。

<解説>
 実に含意に富む具体的な選択肢で、「温知ネタ」として良質な問題である。

@ 1960年5月19日深夜、清瀬一郎衆議院議長(東京裁判では東條英機元首相の主任弁護人を務めていた)は、衆議院本会議場で野党議員が議事進行阻止を試みる中、荒船清十郎議事運営委員長(運輸大臣時に選挙区内の駅に国鉄の急行列車を新たに停車させるよう働きかけたが、問題となり辞任した)や金丸信議員(当時1年生議員、後に副総理、自民党副総裁)らに担がれて議長席に座り、マイクを握り締めながら国会の会期延長の採決を行った。その後、5月20日未明に新日米安保条約の批准に関する採決が行われ、自民党議員の起立多数で可決された。日本戦後史を飾る一シーンである。この日に採決をしたのは、同年1月に岸信介首相が新日米安保条約調印のために訪米した際決まった6月19日のアイゼンハワー大統領の来日に合わせて条約の批准書を交換することを想定していたためであり、さらには憲法第61条により、条約の批准については衆議院の議決後国会休会中の期間を除き30日以内に参議院が議決しない時は衆議院の議決が国会の議決となるためであった。

A 安保改定反対運動は、5月20日の条約批准案衆議院通過以降、国会乱入やハガチー事件などさらに拡大していった。反体制(革新)側は当時、東條内閣の商工大臣として太平洋戦争宣戦の詔書に副署し東京裁判ではA級戦犯容疑者として拘束された政治的経歴や、内閣として警察官の職務権限を強化する警察官職務執行法改正に着手(審議未了で廃案)した姿勢などを岸信介首相に見、安保改定反対「アンポ粉砕」とともに岸内閣打倒「キシ倒せ」も加わって大々的な反対運動を展開した。反対運動が沈静化したのは、条約批准が自然承認された6月19日以降である。そして、藤山愛一郎外務大臣とマッカーサー駐日アメリカ大使との間で新条約の批准書が交換されたのは6月23日であった。

B 1960年は日米修好通商条約発効100周年にあたり、6月19日にアイゼンハワー大統領をアメリカの現職大統領として初めて日本に招くことになっていた。1951年に(旧)日米安保条約を調印した吉田茂元首相もアイゼンハワー大統領の来日を心待ちにしていたが、6月16日に訪日延期の閣議決定をマニラに滞在していたアイゼンハワー大統領に伝えた。アメリカの現職大統領が初めて来日するのは、この14年後のフォード大統領で、この来日を接遇したのが田中角榮首相であった。

C 岸信介首相は当初、この選択肢文字通りのシナリオを描いていた。岸首相は、旧日米安保条約はアメリカに従属的で米軍による占領状態を事実上継続するものと見ていて、自らの内閣で新条約として日米関係を対等なものに改め、その後憲法を改正し日本の自衛力を増強したいと考えていた。しかし、激しい安保改定反対・岸内閣打倒運動が渦巻く中、岸首相は新日米安保条約批准案が自然承認となるその日を閣僚とともに首相官邸で迎えた。首相官邸から閣僚が一人また一人去って行ったが、実弟の佐藤榮作大蔵大臣だけは最後まで岸首相とともに残っていたという逸話が残されている。岸首相は、新条約の批准書交換を終えて6月25日に辞意を表明した。その後自民党総裁選挙が行われ、池田勇人氏が自民党総裁に選ばれた。同年7月19日第1次池田内閣が成立した。


こうしたことが、編者(土居)が1999年度センター試験の監督をしながらこの問題を読んで頭の中を駆け巡ったのでした(ちなみに、これは編者が生まれる10年前の出来事です)。


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