第1章 拡大教科書の作成に関する課題

中野 泰志


1.1 問題の所在

 「障害のある児童及び生徒のための教科用特定図書等の普及の促進等に関する法律」の施行により教科用拡大図書(以下、拡大教科書)の発行点数や給与の実績は増加している。しかし、弱視児童生徒(以下、弱視児)の視機能、発達段階、他の障害の有無、学習形態等は多様であり、適切な拡大教科書の選定がなされているとは限らない。例えば、我々が昨年度実施した特別支援学校(視覚障害)(以下、盲学校)の高等部に在籍する272名の弱視児に対する調査では、拡大教科書に対して一定の利用率・満足度が得られている一方で、給与を受けているにもかかわらず使用していない生徒が48%、使用しているが満足していない生徒が44%であることが明らかになった。使用していない原因や満足していない原因としては、文字サイズ、判サイズ、フォント等がニーズとマッチしていないことがわかった。我々の研究は盲学校の高等部の生徒に対する調査であるが、専門性が高いと考えられる盲学校でこのような現状があることを考えると、通常の小中学校でも同様もしくはそれ以上のミスマッチがあることが予想できる。今後、より多くの障害児が拡大教科書等を有効活用し、教育効果を上げるためには、ミスマッチを出来るだけ減少させることが必要である。また、拡大教科書等を安定して供給し続けるためには、コストパフォーマンスを向上させることも重要だと考えられる。そのためには、ニーズを的確に把握し、ニーズに基づいて効果的に拡大教科書を作成するシステムの構築が必須である。


1.2 弱視児のニーズを拡大教科書作成・選定に反映させる方略

 なぜ、拡大教科書が弱視児のニーズとマッチしないケースが生じるのであろうか? 我々は、この問題を検討するために、盲学校を対象に実施した3つの全国調査(中野、2009)、弱視児童生徒用拡大教科書の在り方に関するシンポジウムや勉強会、拡大教科書や補助具の専門家で構成されているメーリングリストでの議論、拡大教科書作成者のインタビュー等を実施した。その結果、どの弱視児にどの教科書を給与するかという選定の問題とより多くの弱視児に有効な教科書作成方法の問題があることがわかった。以下、主な問題点とその対策案を記す。

(1) 選定・評価方法が確立されていない

 中野(2009)が実施した盲学校の教員1,312件に対する意識調査の結果、拡大教科書選定にとって最も重要だと考えられる文字サイズに関して、教員の認識と弱視児のニーズの間でズレがあることが明らかになった。つまり、教員の認識と弱視児のニーズのズレが教科書の選択の際に影響している可能性が示唆されたわけである。また、本調査の結果、読書効率評価を実施しているケースが少ないことがわかっており、ズレが生じる原因は、拡大教科書の選定・評価を行うための選定・評価方法が確立されていないためだと推測できた。特に、盲学校であっても視覚障害教育の経験が浅い教員が多く、簡便に利用できる評価キットや評価用教材の必要性が高いことが予想できた。そのため、それぞれの弱視児にどのような拡大教科書を給与することが望ましいかを評価するための方法を確立する必要がある。なお、選定・評価にあたっては、視機能だけでなく、疲労・好み・発達段階等も考慮する必要がある。

(2) ニーズに基づいた拡大教科書の作成システムが確立されていない

 拡大教科書は、障害のある児童及び生徒のための教科用特定図書等の普及の促進等に関する法律第6条第1項の規定に基づいて定められた標準的な規格(以下、標準規格)に準拠して作成されている。しかし、標準規格は、概括的な一般原則や製作上の配慮事項を記したものであり、各拡大教科書において標準規格をどのように実現するかについては、教科書会社やボランティア等の作成者に委ねられている。現状の標準規格では、優先順位等までは定められていないため、標準規格の中のどの要素に重点を置くかは、必ずしもユーザの実態に基づいて決まっているわけではない。つまり、弱視児のニーズに基づき、より効果的な拡大教科書を、より効果的に作成するための指針の確立が必要だと考えられる。

(3) 弱視児の意見を集約し、作成者に届ける仕組みがない

 現状では、給与されている拡大教科書が有効であったかどうかに関して弱視児や教員の意見を集約する仕組みがない。そのため、作成者は教科書を作成するだけで終わっており、一方、ユーザである弱視児や教員はその効果や不満等の意見を届ける先がない状況になっている。つまり、作成者とユーザのコミュニケーションを支援する仕組みづくりが必要であると考えられる。


1.3 標準規格における重点事項の整理と組み合わせの効果に関する分析の必要性

 中野(2009)の盲学校高等部の弱視生徒に実施したアンケート調査では、拡大教科書の選択において重視する要素として、文字サイズ、字体(フォント)、判サイズに対するニーズが高いことがわかった。これら弱視児のニーズに基づいて重点事項が整理されていれば、優先順位を考慮して拡大教科書を作成することが可能になる。また、中野(2009)が78名の弱視児に対して実施した模擬授業と作業効率評価の結果、標準規格の各要素間に相互作用があることがわかった。例えば、文字サイズと判サイズに関してはトレードオフ(二律背反)の関係(大きい方が見やすいが、操作性や持ち運びやすさを考えると判サイズは大きくなり過ぎては困る)、文字サイズとフォントに関しては補強関係(文字サイズが小さくてもフォントを太字にするとカバーできる)があることが明らかになっている。これら標準規格の組み合わせがどのような効果を持つかについての指針を整理すれば、拡大教科書の作成時の留意点が明らかになる。これら標準規格の効果の整理は、拡大教科書のコストパフォーマンスの向上を通して、安定供給にも貢献できると考えられる。例えば、文字サイズだけを考慮して判サイズを大きくし過ぎると、その拡大教科書の給与を希望する弱視児が減少し、採算がとれなくなり、拡大教科書の供給が困難になることが予想できる。また、レイアウトの関係でルビ等の文字サイズを大きくできない場合に、字体を変更することで補完できれば、レイアウトの作業が効率的になり、コストダウンにつながる可能性がある。

 標準規格の効果測定は、今後の教科書のユニバーサルデザイン化を考えると、他の障害児、特に、弱視と同様に読み書きに困難を示すディスレクシアに対しても実施する必要がある。従来から、弱視児への配慮がディスレクシアの児童生徒にとっても有効だと言われているが、その有効性についての科学的なエビデンスは十分に揃っているわけではない。そこで、本研究では、ディスレクシアへの効果について検討するための予備的な事例研究を実施する。


1.4 本調査研究の目的

 上述の問題意識に基づき、必要な弱視児に適切な拡大教科書を無駄なく、安定して給与するシステム(ニーズに基づいた拡大教科書作成支援PDCAサイクル)の提案と構築を行うために、本研究では、拡大教科書の選定・評価方法の確立、拡大教科書の効果的な作成を支援する意見集約システムの構築、効果的な標準規格の組み合わせによる障害その他の特性に配慮した教科書の在り方の提案を行う。また、標準規格の重点化や効果に関するエビデンスを収集する。


1.5 本調査研究の実施体制

 本研究は、以下の専門家を研究協力者として実施した。

(1)弱視教育、拡大教科書、視覚科学に関する学識経験者

(2)教育現場からの助言者

(3)ディスレクシアに関する学識経験者

(4)拡大教科書作成者

(5)その他

 本研究の実務は、慶應義塾大学自然科学研究教育センターの研究員である新井 哲也、大島 研介、澤海 崇文、花井 利徳、山本 亮、吉野 中が担当した。また、拡大教科書作成者の調査の実施・集計は富士ゼロックス株式会社、弱視児童生徒のニーズ調査の実施・集計はピュアスピリッツ株式会社、拡大教科書選定支援キットの編集・印刷・製本等は株式会社キューズに依頼した。なお、サンプル版拡大教科書の著作権に関わる処理には社団法人教科書協会の、ボランティア製作拡大教科書のサンプル収集にあたっては全国拡大教材製作協議会のご協力を得た。


<目次へもどる>