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不平等の定義  

平等という言葉は一昔前まではいい意味で使われていたと思うのに、最近のマスコミ報道では「多彩な才能を「平等」でつぶすな」というように、悪い意味でつかわれているという指摘がありました。その通りだと思います。もちろん、いまでも平等をいい意味でつかうことも多いとは思いますが、悪い意味でつかうことが多くなってきているのは確かでしょう。

この場合の「平等」というのは抽象的なつかいかたであって、「何の、誰の」平等なのかは特定していません。意味を限定せずに、語感のことだけを書いています。抽象的に平等、不平等というのでは話はすすみません。

そこで、少しだけ意味を限定するために、まず結果の平等と機会の平等の区別をしてみようということになりました。平等という言葉はもともと「結果的に」というニュアンスを含んでいるのではないかという指摘もありましたが、議論はむしろ機会の平等の方に集中してきました。

平等の概念の分類にとどまらず、価値判断を加える形でみなが意見を出すので、議論の流れが見えにくくなってきているように感じます。

以下では、価値判断は抜きにして、いままでの議論から、平等・不平等の概念をどのように整理したらいいかを考えます。


経済学の考え方では、ある一人の人の行動は次のように表現されます。

 

(1)初期資産(モノの保有量)
(2)そのときどきの技術
(3)人的資産(技術をつかいこなすノウハウ)
(4)何らかの制度的制約(差別やコネの等の存在)
を与えられた下で
(5)自分の効用を最大にするように消費や職業の選択をする。
その結果
(6)偶然要因の作用がはたらいた後で
それぞれの効用の大きさが決まる。

このような表現から、人々の行動の結果にちがいが生まれるのは制約条件の4 つのうちのいずれか、あるいは効用関数のちがいに起因することがわかります。 効用というのは経済学の用語です。 平たく言えば「好み」です。 まったく同じ条件下でも、人それぞれ自分の好みによって選ぶ道は 変わるはずだということです。

制約条件に並んでいる4つについては説明を加えるまでもないでしょう。

(1)は金持ちか貧乏人かということですね。モノをどれだけもっているかで、競争のスタート時点で格差が生まれます。モノに限定せずに、情報の保有量も考えるべきかもしれません。

(2)技術とあるのは、モノを変形する能力のことです。いい機械をもっているかどうかということだと言ってもよいでしょう。他の条件がまったく同じならば、いい技術を持っている者の方が、生産性の劣る機械を持っている者よりも有利な条件で競争できます。モノの中に情報も含めるとすると、性能のいいコンピュータを持っている者の方が有利ということです。

ところが、どんなにいい機械をもっていても、それを使いこなす能力がなけれ ば意味がありません。この点は(3)人的資本で表現されています。当然、同じ機械をもっていれば人的資本の蓄積が高い者の方が競争力があることになります。

(4)制度的制約にはいろいろなものがあります。特権的に所得獲得機会を得 ることができるような制度です。社会的に高いと言われている地位についていること(地位差別とでも言うのでしょうか)、性のちがいを重視する制度(性差別)、貴族やカーストなどの特権的階級の存在(階級差別)、等々です。

結果の平等・不平等

さて、(1)〜(4)の制約下で人々は行動し、結果として何らかの効用を得ることになります。結果の平等というのは、最終的に計算された効用の大きさがすべての人の間で同じことと定義できるでしょう。みなが同じように満足できる状態が、結果の平等が実現した状態ということです。

ただし、効用が測れるものなのか、複数の人々の間で比較が可能なものなのかという問題は残ります。結果の平等についても、考えなければならないことがたくさんあります。

例えば学費。 一律同じ金額を支払う上では平等ですが 所得格差から見たら平等ではないでしょう 結局真の平等はありえず、 どこで折り合わせるか、納得するかではないかと思うのです
という投稿は、結果面の平等・不平等はそんなに簡単に議論できないということも示唆します。

結果面をいわゆる経済的報酬(所得)で測るのでいいのかという問題もあります。 上のまとめ方だと、効用関数に入ってくる変数の候補ということです。 人間はモノの消費だけを目的に生きているわけではありません。 一方、

愛想良く接してくれるお店の主人が、自分に対して愛想が 良いと勘違いする人も多いでしょうね。本当は自分の持っている お金に、主人は頭を下げているにも関わらずです。
ということを考えると、どんなことでも物財レベルでの議論に集約できるような気もします。(経済学者の発想)

また、いままでの議論には登場しませんでしたが、(6)偶然要因については真剣に考える必要があります。今後の議論での課題でしょう。


機会の平等・不平等

メーリングリストでの最近の議論は、機会の平等の中身に傾いています。 (1)〜(4)のいずれか、 あるいは組み合わせを考えるということでしょう。(1)〜(3)のいずれかが異なるか、あるいは(4)の要因があることを機会の平等がない状態と考えるわけです。いくつかの可能性があります。

生まれながらに人的資本をもっている人はいないですから、(3)の人的資本 は、個人間の機会の平等を考えるときには不適切な論点とも言えます。「不平 等社会日本」の分析、あるいは名科白「親の貧乏孫まで祟る」が示しているこ とは、人的資本の不平等が(1)の初期資本の不平等に帰着されるという考え です。 自分の努力が足りなかったとすると、 (5)効用関数のちがいが人的資本の蓄積度のちがいを生んでいることになり ます。 このように考えて、以下では(1)(2)のいずれかにある格差、(4)があるかどうかということだけに注目することにします。

(1)(2)のいずれかに注目する定義

(1)資産格差は結果面での不平等との関連で語られることが多いのですが、 競争の初期条件としてもっとも重要なものです。 「親の貧乏孫まで祟る」という考えが、この定義だということはすでに指摘しました。 子や孫にとっては親の財産が初期条件になります。親同士に資産格差があれば、 子や孫にとっては、いい塾に行けない、いい家庭教師をつけてくれないという 競争の条件が変わってしまいます。

受験競争の例に限りません。資産をもつ者が有利な立場にあるという経済観は昔からあります。代表的なのがマルクス経済学です。 生産手段をもつもの(資本家)と、労働力以外には何ももたない労働者とから経済が成り立っていると考え、常に資本家が労働者を搾取するシステムとして資本主義経済を記述したのがマルクスです。

累進的な相続税は(1)の面からの不平等をなくすための制度です。

(2)技術のちがいはよく途上国側からの援助批判ででてきます。 どれだけ援助をしてもらっても、最先端の技術を先進国が握っているかぎり、いつまでも南北格差(先進国と途上国の間の不平等)は解消されないという主張です。 この批判が正しいかどうかは別として、技術水準のちがいが機会の不平等につながることは理解できるでしょう。

(1)(2)(4)すべてを考慮する定義

もっとも厳しい機会の不平等の定義です。 議論をする上では、まず(1)(2)(4)のそれぞれの論点を明確にした上で、 それらを組み合わせた定義を考えるべきかどうかを論じればよいので、この 定義の検討は後回しでいいでしょうね。

(4)に注目する定義

機会の平等とは何かを話し始めたときに、

・ 何かをしたいと思っている人が、その行為に制限を受けない事

という定義が提案されました。この定義は、 「制限」が、意志決定の事前か事後かで異なる意味になります。 制限が(1)(2)を含むのか、(4)だけを問題にするのかを最初に明確にすべきです提案者は「親の財産、コネを利用することは不平等にはならない」と述べているので(4)だけに絞り込むことにします。ところが、(4)の中にも2種類のものがあるという指摘がされました。

  1. 競争も可能であろう不平等

      社会のシステムや慣習などに起因する非人道的な差別から発生する「機会」の不平等。 弱者には競争に参加することができない場合。

  2. 競争可能型の不平等

      一部の者が特権的な力を発揮できはするけれども、不公平なルールの下であるとはいえ、強い者と弱い者とが競争することができる場合

という2つです。


平等・不平等は主観的なものか

会社内の昇進システムに関する議論は、 原理的にはともかく、運用上は競争可能型の不平等の解消は実現不可能なのではないか、という指摘だったのではないでしょうか。

メリットシステム(能力性)によってその人のパフォーマンス・病欠その他のトータルで高得点でないと昇格できないシステムは、評価する上司の公正さが問題になり、不平等感がたかまった。

という投稿がありました。これに対し、「それはシステムの不具合」と理解すべきという意見がでました。この議論から読みとるべきことは、原理的な話と運用面でのくいちがいということだと思います。メリットシステムは理念としては、(4)を排除するという意味での機会の平等であり、しかも競争可能型です。しかし、運用の段階になると、本当に公正な評価がされているのか、上司が自分の気に入る部下をひいきするような不平等があるのではないかという不満を生み出してしまっている。妬み、ひがみは人間にはつきものなので、運用上は不平等感が高まるということです。

機会の平等は事後的にしかわからないということも、この論点を支えます。結果面での不平等が生まれとき、競争に負けた人は、自分の力不足ではなく、不公正な何かがあったから自分が負けたんだと思いたくなるものです。要するに機会の不平等を見ようとするということです。

さらに、この議論から読みとるべきことは、不平等と不平等感の区別ということではないでしょうか。主観を離れた不平等の計測ができるはずです。不平等と不平等感とは異なるものと考えるべきでしょう。不平等のないシステムが仮に作れたとしても、不平等感がぬぐい去れるわけではないというのが上の議論です。

「平等・不平等の基準は主観的要素を含んでいる」のか、あるいは「主観を離れたものとして考えることができる」のか、最初に明確にすべきことはこの点かもしれません。

その他、 まだ不平等という言葉をどのようにつかうか議論が煮詰まっていません。 もっと議論を出す必要がありますね。 価値判断については、いままででてきた論点を 不平等の評価 で整理します。


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