演習(駒形・大平)
与論島。 投稿者:カタオカ 投稿日:2002/07/22(Mon) 17:24 No.117  
まだ確定ではありませんが、夏休みに与論島に行く予定です。
高校時代に一緒にオーストラリアでホームステイした友人が与論島に住んでいるので訪ねに行きたいと思っています。

大平先生の沖縄についてのプレゼンテーションはなかなか衝撃でした。 与論ついでに沖縄も見てこようと思います。


与論と辺戸 大平 - 2002/07/23(Tue) 15:11 No.118  

私は与論へは行ったことがありませんが、なんどか海上越しに見たことがあります。沖縄本島最北端の辺戸岬というところに行くと、与論が遠くに見えます。その岬には「祖国復帰記念碑」(だったと思う)という石碑が建っています。かつて米軍の支配下にあったとき、沖縄の人はこの岬にたち、日本への復帰を夢見たと言われています。(もっとも、実際には、海上では漁師さんたち同士が船の上で談笑することも多かったらしいです。)

日本への復帰を望んだ人がどれだけいたのか、辺戸岬に行く人がどのくらいいたのかの真相はともかく、本土の人間としてこの岬に行くと、目の前の海上にかつて国境線があったんだなあという感慨があります。



与論島行ってきました! カタオカ - 2002/08/22(Thu) 04:24 No.119  

消防士かつ元PTA会長の社交的な友人の父を介して、警察官・郵便局員・教師・町役場職員・医師といった島を支えるあらゆる職種の人とお会いすることができたので、わずか5日間の滞在でしたが中身の濃い時間を過ごすことができました。

自分が体験し考えたことを整理してからまた報告したいと思います。


所有権 投稿者:大平 投稿日:2002/07/17(Wed) 14:42 No.115  
夏休みは掲示板も休止しようと思っていますが、その前に一つだけ確認事項です。

近経とマル経を区別するものとして「所有権」の概念があるかないかが重要だというのが、春学期最後にあった論点です。秋学期の議論はこの点をめぐっておこなわれることになるはずです。

「所有権」という言葉をどのように理解したか、また、なぜ重要なのかなどについてだけ今の段階で掲示板に書き込みをしてください。


片岡さん、外からでも是非... 梅田 - 2002/07/17(Wed) 21:18 No.116  

大垣さんといい、片岡さん・・・外の世界で頑張ってください。
まぁまたどっかで会えたら会うことでしょう。

所有権・・・マル経では労働力の所有があるものの、それを使わずには生きていけない状態である。ということと、近経では、労働力とかそういうことではなく、「私財」に関しての所有権の問題しかないように思われます。つまり労働力の所有も含めて「所有権」という考えはあるが、それ以上でもそれ以下でもなく、他に意味を持たない。

という感じで理解をしています。

ではなぜ重要なのか?・・・やはりマル経の理解の方が重要視していると思います。つまり、人間の尊厳(?)のようなものを学問に組み入れているからでしょうか。と思います。

夏は、この掲示板も一休みですね。また後期頑張っていきましょう。


今日の授業 投稿者:梅田 投稿日:2002/07/04(Thu) 23:33 No.110  
今日の授業は、多くの部分がこの掲示板の論議について直接話しました。

まず、資本主義というものに利益追求が特有か?
そこから@人間は金を目的として働くのか?A資本主義とは何か?という問題が出てきました。
@に関しては、金ではなく・・・という話から、金がそもそも汚いという俗的な感情も混ざってくるので難しいということで、その前段回として(?)
B資本主義・社会主義などを忘れ、欲望とは何か?効用とは何か?を議題にしました。

そこでは、ミクロ経済学における「効用」は、「効用」というより「選択行為」であるといったほうがいいということを大平先生はおっしゃっていました。これは大平先生の下の書き込みにも通じるものだと思います。つまり私が思ってる以上にミクロはもっと「効用」は広義である、といった感じでしょうか。

そして個人個人にこだわっているからパレート最適なんていう考えが出てくるという話から、パレート最適の均衡は無限にあり、どれも効率的ということができる。またこのような考えからは雇用に関する問題とかは出てこないなど色々な話がありました。


次に、正統か異端か?という論議の続きの話が出まして、色々な経済学部の先生の話が出ました。これは純粋に聞いてて面白かったです。私のゼミの蓑谷先生も含めて。


また「利潤」についても少し話しました。そもそもの近経では消費者と生産者のそれぞれの効用最大化と利潤最大化は「機能」の問題であるということから、それぞれの「機能」への分配は問題になるけれども、「人」への分配は問題にならないという話も出ました。


そして最後にあったのが「所有権」をめぐる話でした。
ここらへんがいまいちよくわからなかったので、できればどなたか補足の程宜しくお願いします。


Re: 今日の授業 川井 - 2002/07/05(Fri) 14:56 No.111  

あと最後の最後に、サービス産業にノウハウというものが必要であるのかと大平先生がおっしゃっていました。

個人的にはサービス産業にノウハウは必要だと思います。
広告業界についてはわかりませんが、消費者金融やテレアポでは
、その業界での経験から作られるマニュアル(ノウハウとマニュアルが混ざりました。)を用いて、それについての知識を持たない人が仕事を行っています。 これらの産業からノウハウを取り上げると成り立たなくなるので、少なくとも一部のサービス産業については必要だという結論に至りました。

皆さんはどう思うのでしょうか?

あと一番最初の授業で大平先生が紹介していたハワイを読みました。ハワイの民族構成すら知らなかったのでとても新鮮でした。
機会があれば読んでみてください。


Re: 今日の授業  - 2002/07/09(Tue) 11:05 No.112  

 そういえばハワイの話をぜひ聞きたいです。とりあえず本読んでみます。

前回の授業ですが、所有権の話はこんな感じだったと思います。
 ものを作る機能(生産)とものを消費する機能は資本主義に特有でなく、資本主義、社会主義を分けていた大きな違いは所有権(=その処分にかかわる意思決定権)ではないか。
 
 所有の概念は近経では決定的でなく、基本的に「持つ者」と「持たざる者」を対等と考えていて、マル経では「持つ者」が「持たざる者」を搾取していると考えている。

 誰もがベンチャーを起こせるわけではないから、自分の労働力を渡して、賃金を稼ぐ。あれ?その場合の労働力の処分権というのはどっちにあるんですかね?

 このへんがノウハウとかの話とからんでいたと思うのですが、形式的には労働者が意思決定権をもっているともいえるけど、実質的には経営側が握っている気がします。



 


Re: 今日の授業 カタオカ - 2002/07/09(Tue) 23:39 No.113  

大平先生は確かベンチャー企業創設に関してノウハウが必要か否かに関する議論を傍系だとおっしゃっていたので、積極的に議論すべきかどうか分かりかねますが、そういう些細なことの方が話していて面白いのは事実です。理論と現実の相違というか、溝といいますか…。

いわゆる日吉で教わるようなミクロ経済学の世界観、経済活動における機能で人間を分ける、生産者と消費者しか存在しない、という話は非常に興味深かったです。


Re: 今日の授業 大平 - 2002/07/10(Wed) 12:52 No.114  

この議論を傍系なんていいましたっけ。覚えてないです。広告業にノウハウなんていうほどのものがあるのかというようなことは言った覚えがあります。


過去ログ 投稿者:大平 投稿日:2002/07/01(Mon) 14:20 No.94  
http://www.econ.keio.ac.jp/staff/tets/kougi/chiiki/ko0201.html
に5月までの書きこみを入れました。(リンクは張っていません)

あまり深く考えずに思いついたことをどんどん書きこむという方針を確認しておきたいです。あらためて読み返してみると、議論がまだ不充分だなと感じる部分がたくさんありますが、ログをとっておけばいずれ問題を再検討しなおすことができます。まずは議論の材料をたくさん書きこみすべきでしょう。

なお、書きこみの際にメールアドレスを入力しても構いませんが、ウェブ上にメールアドレスが出ることは、思わぬ人からの攻撃的メール(文章の内容のことではないですよ)を受け取ることになりかねません。メールアドレスの入力はしないほうがいいですよ。


ども 梅田 - 2002/07/01(Mon) 21:47 No.95  

色々なことを話したことを少し思い出しました。


これからもあまり関係ない話を含めて、ガンガン話していきたいですね。


そして「ダイの大冒険」の話が載っててちょっと笑いました。

マンガつながりで、ちなみに昨日読んだ本で
◆「マンガ狂につける薬21」 呉 智英 
はなかなか面白かったです。

学問として正面きってとある現象にアプローチする方法が主流の世の中で(良い悪いは、くどいようだがない)
この本は「マンガも、活字の本も実は面白い」という考えの下、色々な本が
著者の観点から描かれていて中々秀逸の出来栄え。
でも所々言葉がちょっと乱暴。


思ったんですが、学問で正統、異端というのはあるんですかね?
あるとしたら、それはやはり単なる「雰囲気」なるものなんでしょうか?
(EX、駒形先生には非常に失礼かもしれませんが、現在ではマルクス経済学が異端という烙印が押されている感じがします。私はそうは思っていませんが)


ダイの大冒険 大平 - 2002/07/02(Tue) 00:32 No.96  

この授業では、ほかではまず議論の対象になることがないむずかしい話をたくさんしていますが、この漫画の話が一番わからなかったです。いまだにさっぱりわからない。

「マンガ狂につける薬21」は読んだことがありませんが、呉智英の本は私も好きです。言葉は乱暴だけれど、時流に流せることなく深く考える人の文章を読んでいるという感じがします。ただ、いつも感じることなのですが、この人に限らず、一般に評論家と言われる人たちの文章は、どんなに鋭い着眼点とか、深い洞察力があっても、物足りなさを感じる面もあります。エコノミストと呼ばれる人々の発言に対するのと同じような不満です。おそらく主張だけが鮮烈で、その主張が基づいている方法(学問といってよいかもしれません)が広く共有されているものではないことに原因があるのかなという気がしています。基本的には「自分がそう思うからそう主張する」ということ以上の内容がないのではと感じます。

学問に正統・異端があるとしたら、自分の拠って立つ方法(モデルとか学派)があるのが正統、直感による主張だけをするのが異端、ということはできないでしょうか。

(あまり考えず、議論を誘発するために過激に書きました。)


「マンガ狂につける薬21」 梅田 - 2002/07/02(Tue) 22:57 No.102  

この本、今年の4月に出たので・・・まだ新しい本です。

私が思うのは、エコノミストと評論家は違う気がします。評論家といっても「思想家」としての評論家です。私の尊敬する柄谷氏や西部氏は(すんごい組み合わせだな・・・なんか筋通ってない趣味(笑))、広く共有されている方法論での接近方だと思います。でもエコノミストは・・・と言った感じです。でもあまり考えての発言ではないのであしからず。


学問の正統・異端ですが、私が思うところは
長年使われている(それだけ人々の支持を得ている)ものが正統で、それとは反発しているものが(それだけまだ人の支持を得ていない)ものが異端といった感じです。

上記の考えていくと、カタオカさんの先生の金子さんなんかは「異端」なんじゃないでしょうか?(すいません。でも金子先生自身、現在の経済学に満足していないのは確かですよね?)


Re: 過去ログ  - 2002/07/03(Wed) 13:13 No.103  

 昨年坂本先生の社会思想史の授業で、ヒュームの文明社会論というご自身の著作を中心に授業を進められていたのですが、その中で「学者はあくまで冷淡に解剖をするべきで、画家になってはいけない(両方必要だが)」というようなくだりがあったのを覚えています。

 でもこの授業を受けていて何が解剖で、何が画家なのかよくわからなくなってきてます。それを分けているのが科学的方法なんでしょうか?それとも2元的に理解しない方がいいのかな、科学も画家的な側面を持っているということを授業で確認しましたもんね。


科学的方法 おおひら - 2002/07/03(Wed) 17:00 No.107  

もちろん単純な2元的分類をしようとは思いませんが、解剖家と画家の区別は方法が第三者に後追いできる形になっているか否ではないでしょうか。

学者がおこなうことは、同じ作業を第三者がおこなっても同じように再現できるようでなければいけません。画家の場合は自分の感性がすべてであって、作品を作り出した背景や心情が再現可能である必要はありません。

後追い(再現)可能である行為であることが科学の必要条件です。


日経新聞 「惑うマネー」 投稿者:カタオカ 投稿日:2002/07/01(Mon) 07:05 No.93  
日経新聞の先週の経済面企画記事「惑うマネー」シリーズをお読みになった方はいらっしゃいますか?

先輩(入社まだ一年目☆)が感想を知りたがっているのでもし良かったら教えてください。お願いします。
すみません 投稿者:カタオカ 投稿日:2002/06/27(Thu) 14:27 No.89  
今日の内容 よろしくお願いします。


どーも 梅田 - 2002/06/28(Fri) 21:56 No.90  

最初に掲示板の続きで、日本とアメリカの銀行の行動についてのお話がありましたね。
本来銀行は、普通の人では手に入らない情報を使って投資や融資を行なうべきである、つまり社会の情報再分配機構として、間接投資を行なうべきである(日本ではそれが行なわれておらず、「担保」へ)

そしてベンチャーキャピタルがリスク・ラバーという話にもなりましたね。
駒形先生の下のレスにもある通り、中小企業では継続性を考えていて、かついわゆる「社会貢献」をも考えて仕事をしている人が多いのではないかという問いかけでした。そこからベンチャーは金儲けをしている、下の言葉でいえば「山師」的な側面があり、一般の中小企業とは峻別すべきだと言うことでした。

途中から、本の内容に入り「価値法則」の話になりました。
非常に難しい話が続き、所々筆が止まりました(すいません、よくわからなかったもので)。
その「価値法則(=価格メカニズム)」を利用することは否定はしないが、その背後には「利潤追求動機」を認めるか否かで、統制経済が成功するか否かが分かれるところだという話もありました。

大平先生が提示されていたのが、日本の統制経済に於いてほぼ国営だったにもかかわらず個人には利潤追求動機(出世など)を認めることで成功した(現在の中国も)。だがはたしてそれが社会主義なのか?ということが次回へということだった気がします(というかノートがここで止まっています)。

そして最後にあった非常に面白い話が
「公営事業(EX道路公団)が赤字であるというのは当然だ。逆で、赤字が出るから公営でやってるんだ。元々黒字が出るようならば、民間でやっている」ということでした。勿論「インフラ」事業であることを大平先生はおっしゃっていました。


そこで、ふと思い出したのが、クルーグマンのちょっと私は苦笑してしまった話ですが、
あの911の事件の際に、クルーグマンは空港の警備の甘さを指摘。
それは、空港職員に対しての時給が非常に低く(職員ではなくバイトだった!!)、また人件費の削減もあって人数も少なく、非常に警備が希薄であった。というものでした。民間に任せたことへの批判、というものだった気がします(あんま正確じゃないですが)

いや、そういう問題なのか?とちょっと苦笑でした。なんとなくですが。


ありがとうございます 片岡 環 - 2002/06/29(Sat) 03:21 No.91  

梅田君の筆が止まるってことはすごい難しかったんでしょね。

ちなみにまた話がそれるんですが(こればっかり)
「無一文になってもあなたは笑っていられますか?」

例の企業家は「マネーロンダリング」なるものをしている
ようで、ずいぶんと危ない(命を狙われる?)そうです。
あるんですね、そういう世界が。
そこまでして、どうしてお金を稼ぎたいんでしょうか。。

そこで出てきたのが広告デザイナー(福利厚生ほぼなし、給料安い、労働時間長い)の友人の弁。
「そういう人は、無一文になったらどうするんだろうね。
  俺は笑う自信あるよ。」

金銭の問題がとてもナイーブなのは(瀬古先生だぁ…)
人間の自尊心に関わってくるからだと思います。
資本主義だ、社会主義だといいますが、それらの思想は
どこまで人間の自尊心を尊重しているのでしょうか。

来週こそは早起きして9時にいられるようにしたいです…。





いやはや 梅田 - 2002/06/29(Sat) 13:23 No.92  

むかーし昔の、とある哲人の話で(確かアリストテレスだった気がする)

すっごいみすぼらしい生活をずっと送っていた思想家がいたらしいです。で王様はその思想家のことがえらく気に入っていて、王宮に呼んで、もてなそうとしたんですが、思想家はそういうことを求めていないらしく、いつも道端で日を浴びながら暮らしていたらしいです。そこで何回か呼び出しても来ないので遂に王様自ら思想家のところに行って、こう言ったそうです。

「何かあなたの求めることはないか?私はそのとおりにしよう」

と。そこでその思想家が応えて曰く

「じゃあ、そこをどいてくれ。太陽の光が当たらないから」

といったらしいです。


さてさて、ここで私はここまで堅固な(?)思想を持っておりません。お金は生きていくために必要だと思います(素朴な意見ですが)。
でも、お金だけだとは思わないのも事実です。いくらあってもしょうがないものだとも思います。それこそ、私には広告デザイナーの人のほうが正論だと思います。

私の知り合いの予備校の先生(というか高校のときに習っていた先生)は、それこそ「思想家」なんですが、今真剣に平和のため(というと非常に陳腐に聞こえるかもしれませんが)に「自らの身を捨ててまで」活動しようとしています。

人の欲望が無限であるように(BY経済学)、いくらお金を持っていても「絶対的な」効用を得ることは出来ないでしょう。その「絶対的な」効用をもしえることができるならば、それは宗教や思想、そして先にあった「世界観」でしょう。


また、人間の自尊心と深くかかわってくるというのは別問題で考えてみたいですね。
「お金は人間の自尊心と関わっているのか?」
ってことですね。もしもそれこそ「従属」であるならば関わってくるでしょうが、私はマルクスの言うほど、貨幣によって人が支配される(語弊ありですが)とは思わないんですが・・・。
でも、関わっているというのは否定できない気もします。
つまり「顕示欲」みたいのも含めて「欲」の一つの形態であろうことだとも思いますので。

でもやっぱそれは人それぞれなんじゃないかなぁとも思います。
つまるところ本人の「思想」「考え方」に依拠する問題かなと
(非常にまとまっていない、相対君な意見でごめんなさい。)


利潤追求動機 大平 - 2002/07/02(Tue) 00:38 No.97  

むずかしい話だったので、一回ですべてを解説しようとせずに書き込みをします。

私が言いたかったのは、社会主義と資本主義とを分類する本質的な基準は利中追求動機にあるということです。
資本主義=利潤追求動機が認められている
社会主義=       認められていない
ということです。政府が経済計画をたてるかどうかは経済体制の分類にとって本質的ではないということです。極端に言えば、政府による計画がたくさんある資本主義だってありうるし、計画はまったくたてない社会主義だってありうることになります。

完全競争の条件が満足されなかったり、市場の失敗がある以上、政府が介入した方が望ましい経済状態を実現できることは明白です。資本主義といえども、統制色があるべきだし、途上国ほど政府の介入がより必要になるにきまっています。しかし、どんなに政府が介入をするとしても、ここの企業の経営者(あるいは責任者)が努力をすればしただけ報酬をもらえる仕組み(これを利潤追求動機の保証と呼んでいます)をもたせていれば資本主義と呼べます。

このように整理するとしたら、現在の中国は資本主義と呼ぶべきということを言いました。


公営事業 大平 - 2002/07/02(Tue) 00:45 No.98  

上の書き込みだけを見ると、私が道路族のように見えてしまうので、一応補足しておきます。(誤解はないでしょうけどね)

「赤字がでる公共事業は廃止するべきだ」という主張は乱暴だというのが言いたかったことです。黒字が出る事業ならば最初から民間が参入しているはずですからね。ただ、赤字はいくら出してもかまわないということにはなりません。必要に応じて資源を配分する必要はあります。そのときに、利用可能な資源がどれくらいあるかということも議論にとっては重要です。

公共事業を死守しようとする人たちは、暗黙のうちに、ニーズは無限大、利用できる予算も無限大(に確保する)という想定をおいてしまっているようです。構造改革を主張する人たちの現状認識よりは、公共事業の必要性があると私は思っていますが、公共事業を守ろうとしている人たちが暗黙に想定しているほど利用できる資源があるようには思えません。現在の公共事業に関する議論は極端と極端との論争のような印象があります。


哲人 おおひら - 2002/07/02(Tue) 16:56 No.99  

梅田君の書きこみにある哲人はアルキメデスではなかったでしょうか。調べてから書きこみをしようと思っていたのですが、もう面倒になったのでうろおぼえで書きます。

アルキメデスではないとしても、アリストテレスよりは相当昔の人だったように記憶しています。なにしろ「王様」が出てくるのですからアリストテレスということはにですよね。ターレスだったかなあ? 忘れてしまいました。


絶対的な効用 おおひら - 2002/07/02(Tue) 17:02 No.100  

この言葉の意味はよくわかりませんが、近代経済学ではお金が経済行動の目的になるという考え方はしません。最終的に自分の効用を最大化することが目的であり、その手段としてお金を稼ぐという考え方です。

まずなによりも陽のあたるところで風呂に入りたいという効用をもっている人だったら、王様に質問された時、そこをどいてくれとこたえるはずです。


うーん・・・絶対的な効用... 梅田 - 2002/07/02(Tue) 22:54 No.101  

あまりに安易でしたね。申し訳ないです。

ですが、経済学が求めている「効用」っていうのと、宗教とかが支持する「効用」っていうのは異なる気がします。
という素朴な感想からの現われです。勿論それが絶対的か?と言われれば・・・どうなんでしょうか。

そして、何より経済学が求める「無差別曲線」なるものも、大平先生のように「個人間の差異」を黙殺している気もします。適当に関数形を当てはめている気がするのは、私の無学から来るものでしょうか?!お金が媒介物でしかないという考えはわかります。ですが、その最終的なモノを得るためのその「どういうもの」を求めるかが本来ならば上記の先生の書き込みのように「人それぞれ」であるはずなのに、あまりにそれが黙殺せざるを得ない状況であり(特異な人でモデルを構築しようとはしないでしょう)、それがどうか?と思っていることとも関係しています。


ちなみに公共事業のことについては、私の書き方がまずかったです。申し訳ないです。

アルキメデスですかね?!いや、純粋にわからないんです・・・誰だっけかな〜。


RE:絶対的な効用  - 2002/07/03(Wed) 15:47 No.104  

 経済学での効用がお金そのものを目的としていない事は理解できました。その意味でいえば、平和への貢献も、ただ金を稼ぐことも、社会的貢献も、みんな「利己的な効用追求」という点で同列であると思います。

 ただそういう効用の設定をすると、利益追求動機がなくても資本主義は成立するのではないでしょうか。例えば報酬にそんなに差をつけなくても、地位や面白い仕事というインセンティブも考えられると思うのですが。そもそもインセンティブなんてお金じゃなくてもいいんですかねー。日本の伝統的な企業で過労死するまで働いてきた人たちは、決して報酬が目当てじゃなかったと思うんですけど。プロジェクトX見ていてもそんな気がするし。これをそのまま一国の制度として確立させれば、なにか社会主義のようなものもできるんではないかな??

 カタオカさんが紹介していたベンチャーの人も実はそこまでお金にこだわっていないのではと疑ってしまいます。その人はそうした無頼な生き方が好きなだけじゃないかなと思ってしまうのですが。

 僕の知ってるベンチャー君も、世の中金だとはいってますが、大橋巨泉みたいな悠々自適な生活が送りたいわけでもなく、「俺は経済界の新庄になりたいんだ。」という事でした。どうも金というより、人と違う大きなことをやっている自分、リスクを背負っている自分が好きだといった感じが強かった気がしました。



序数的効用 おおひら - 2002/07/03(Wed) 16:54 No.105  

個人間の差異を無視して機械的に無差別曲線を描く経済分析が多いのも確かですが、ちょっと待ってください。みなさんはミクロ経済学を学んだ時に、
・個人の効用は測れるものではない
・個人間の効用比較はできない
といったことを叩きこまれませんでしたか? おそらくこの点は近代経済学を学ぶ上でもっとも強調される点だと思います。個人の好みは多様で、しかも個人間の比較は不可能というのがいまの近代経済学で考える効用の本質です。

実はみなさんが思っている以上に近代経済学の発想は健全です。

ところが、困ったことに、このような効用概念(以下では序数的効用と書きます)をつかっていると、ろくな政策提言ができないという現実があります。自由化、規制緩和の主張を近代経済学者がするとき、根拠になるのはパレート最適です。どのような政策提言でも、パレートの意味での効率性が基準になります。このとき、分配の平等であるとか、それ以外の正義の観念は欠落します。

こんなのでいいのでしょうか? センは序数的効用にこだわるのは異常だとして、効用は測れる、個人間の比較も可能だとして、分析をしようと提案しています。仮定の現実性を議論するよりも、目の前にある貧困や極端な経済格差の克服を考える議論をするほうがよほどいいという主張です。私はこのセンの考え方に共感します。効用概念の真実さを考えることは、意味のある議論ができにくい状況を作り出すことにつながるだけです。


ベンチャー君 おおひら - 2002/07/03(Wed) 16:56 No.106  

なるほどベンチャー君は金儲け事態が目的ではないと理解するほうが納得できますね。でも、金儲けが目的ではないとしても、その目的の価値を金額換算することはできますよね。(近代)経済学の発想はそういうものです。利潤概念にしても、常に物的なタームで議論されますが、それをわかりやすい議論にするために金額換算して議論をすすめる習慣があります。


効用 カタオカ - 2002/07/04(Thu) 00:15 No.108  

効用を、個人間の比較はできない序数的なものだとしても、グラフに表現しようとすること自体に違和感を抱くのではないでしょうか? 物々交換や商品を購入して得られる満足感と平和活動で得られるそれを同じ効用としても良いのでしょうか? 人間の欲求には生理的欲求から精神的欲求まで階層があるというような話をどっかで聞いたことがありますが、そういう話を踏まえて「効用」は語られているのですか? まとまりのない質問でごめんなさい。


利益追求動機がなくても資... 駒形 - 2002/07/04(Thu) 08:03 No.109  

乾君の書き込みのなかでの「利益追求動機がなくても、資本主義は成立するのでは」という部分に関心があります。これには2つの把握の仕方があると思うのです。1つは、経済発展・所得水準の向上の結果、人々の欲求が多様化して、単純な資本賃労働関係以外の側面が多くあらわれてきたとみることです。もう1つは、資本主義体制に固有の特質とあらゆる社会に普遍的にありうる事象(たとえば上記の王様と思想家の例)とを区別せず、すべて同列に扱うことです。後者の点は、近経とマル経との立脚点の違いにかかわることだと思いますが、いかがでしょうか。


ウォーラーステイン 投稿者: 投稿日:2002/06/21(Fri) 12:45 No.81  
 今日とうとうヤフーで「ウォーラーステイン」を検索してみました。894件も出てきて、(マルクスの44100件には遠く及びませんが)彼が現在の時事問題について論考しているエッセイ集の翻訳がありました。みなさん既にご存知かもしれませんが、覗いてみてください。
http://fbc.binghamton.edu/81jp.htm
(ウォーラーステインはとっくに亡くなっている人だと思ってました・・・・・)


生きてますよ 梅田 - 2002/06/22(Sat) 03:13 No.82  

先日の911の後に出た
◆現代思想 特別編集「これは戦争か」
というのにも論文載ってます。

でも感想としては、無味乾燥のお話。全てをシステマティックに見すぎな感じもします。


今更ですが「資本主義」 投稿者:片岡 環 投稿日:2002/06/19(Wed) 23:29 No.79  
OBのベンチャー企業経営者いわく、
(お金もうけ等を)
「とことん追求するのは面白いからです。逆に面白くないことには、全然エネルギーが働かない。そしてエネルギーとは、やはりリスクを取って、そのリターンを得る必然性と願望から生まれるものであって、リスクゼロの時点からは、エネルギーが生まれてこない。リスクを取ってリターンを追求するのは、もちろん万人向きではありません。ただ、それが資本主義の極意であるのは事実。そうすると、社会には、労働者層と資本家層が生まれ、労働者は資本家に搾取される社会が出来上がります。

資本家は、リスクを取って、リターンを追及し、それを実現できる人々。
労働者は、リスクを取らず、リターンを追求せず、資本家に搾取される人々。」

ということになるらしいです。(本人の許可を得ずにメールから抜粋しているのでかなりやばいんですけど)

初めて身近にこういう風な考え方の下お金を稼いでいる人を見たのでかなり刺激を受けたので、掲示板に書きました。

授業と関係があるのかないのか分かりませんが 面白いテーマだと思うので暇なときに掲示板で語りませんか?






Re: 今更ですが「資本主義... 駒形 - 2002/06/20(Thu) 08:27 No.80  

労働者層と資本家層の発生についての説明は(マルクス派からすると)いささか納得がいかないものです。生産手段を保有して労働者を雇用する資本家階級と資本家に雇用されるほか生活するすべのない労働者階級とが決定的に形成されたのは、資本主義体制が確立した機械制大工業の成立期で、零細な独立自営業者が機械制大工業に駆逐され、労働者階級化するという段階を経て、こうした階級構造が社会を覆うようになりました。もちろん個別的にベンチャー的企業が存在する余地は否定していませんが、資本家階級と労働者階級の成立契機を、リスクをとるかとらないかという点に求めるのでは、資本主義体制に固有の階級関係を見失うことになるのではないでしょうか。
以上は「マルクス派」に立った意見ですが、リスクをとってリターンを追求する人は、「資本家」というよりは「企業家」と呼んだほうがいいでしょう。


脱・ベンチャー☆ 梅田 - 2002/06/22(Sat) 09:35 No.83  

結構どうでもいい私の知り合いの話からなんですが、私の知り合いで一年のときに、やたらと将来はベンチャー企業起こして・・・という「大望」を抱いている人がいました(いまだに抱いているかもしれないが)

私もいわゆるベンチャー企業の経営者の方と幾度となく話したことがありますが、片岡さんが言うところの「お金を稼いでいる人」は、その上の私の知り合いを含めて、何か「自らの自己弁護(あっとトートロジーだ・・・)」をしているようにしか私は感じられません。

というのも、ガルブレイスの著作のなんかにもありましたが、「ただただお金儲けをしている」と思われるのは人間嫌なものですから、そのお金儲けに対して「社会のため」とか上記でいえば「リスクをとれるから」といった感じで正当化(できているかが微妙だと思うが)しているんじゃないかなと、しばしば感じます。(古典で言えばまさに「プロ倫」!!)

もちろん私の言っていることが「いい」とか「いけない」とかいうことではなく、もっと単純に考えりゃいいんじゃないかなというのが私の意見です。


人間誰だってお金はもうけたいです。欲しいです。
で、それが貪欲にでるかでないか。(良い悪いは関係なく。)
「大金」を稼ぐという野望があるかないか。(なんかマネーの虎みたい・・・)
別段野望は「大金」を稼ぐことにない人もいるでしょう。
私ならば、自らが大金を稼ぐよりかも(生きていくのに十分なぐらいは稼ぎたいけれども)、世界に今よりほんの少しでも平和が訪れたほうが嬉しいです。

ただ抱いている「野望」の種類が違う。それだけのような気がします・・・。どーでしょう?>皆さん。


モノとカネ 大平 - 2002/06/22(Sat) 12:27 No.84  

思いっきり直感的な文章を書きこみします。

同じリスクをとるにしても、金融投資だけで金儲けをしていく人と、モノ作りをする人とで、ちがった印象をもってしまいます。新しいモノ作りを工夫して、それが結果的に金儲けにつながる場合は、尊敬の対象になるんですが、金儲けだけが目的の人を尊敬する気にはならないんです。なんでなんだろうと自分でも不思議です。おそらく以前から問題になっているモノ作りの重要さの議論と関係するんだろうなあと思っています。


マネーのとら 大平 - 2002/06/22(Sat) 12:34 No.85  

この番組は何度か見たことがありますが、2つコメントがあります。

・借りる側の希望は生活のための資金提供であって、企業それ自体が目的ではないように感じる。(上の書きこみに関連するような感想です。)

・貸す側が大した金持ちではない上に、ベンチャー投資をするのに審査をしようとするせこさを感じる。

2番目のコメントについて補足します。あの番組に出てくる程度の金持ちは、日本以外の国では金持ちに分類されないです。まずそれが事実認識としてあります。そして、そのことに関連するのですが、ベンチャーを作り出すためには、審査などせずに思いきって投資をするばくちの精神が必要なのに、あの番組では一種の堅実さを求める融資者しか出てこないんですね。金儲けをできそうな人間かそうでないか、一切考慮せずに投資をするのが(ちょっと極論になっていますが)ベンチャー投資というものです。あんな面接をするのは、やくざっぽい銀行融資という印象しかあたえません。(銀行もやくざのようなものですが)


マネーのとらpart2 梅田 - 2002/06/22(Sat) 14:47 No.86  

上の大平先生の書き込みは非常に興味深いですね。

まず借りる側の希望が生活のための資金提供であるということ。これは確かに企業をベンチャーするのには額が小さすぎるとも思います。あんなんじゃ、それこそソフトバンクの孫さんのようには一生かけてもなれないと思います。

そこまでは合点がいくんですが、
次の貸す側がたいした金持ちではない上に、審査をしようとする「せこさ」
というのは非常に興味深いですね。

私自身もあの番組は、「軽い小遣い稼ぎ」程度なんだろうなぁと思ってみてますが、ベンチャーを作り出すために審査などせずに思い切って投資をするか否か?という考えはハッとさせられました。

確かに、上で孫さんのことを書きましたが、孫さん自身は日本の銀行は最初どこも融資(というか投資)してくれなかったそうです。というのもいまだに日本では「アイディア」に対して投資するという考えが根付いていないというのが一般的な回答ですが、何より私が問題だと思うのは「担保」にかかわる認識じゃないかなぁと思ってます。

「投資」や「融資」(この二者は別物だと思うが)するさいに、私から言わせると「担保」をつける時点で、最初からその担保をとるのが焦点になっているように思われます。もちろんお金で返せる人もいるわけですが、どうしても不動産神話ではありませんが、担保を強固なものと考えすぎのような気がします。それがバブルとも関連してくるんじゃないかなぁと(ここでのバブルは日本の80年代末のあのバブルに限定しますが)。

いや、改めていろいろ考えさせられました。


なるほど 大平 - 2002/06/22(Sat) 15:29 No.87  

さすがにカネを出すとき、まったく相手を見ないということはないですから、どのような国でも何らかの意味での「審査」はしますね。問題は担保に対する考え方という梅田君の指摘は正しいように思います。欧米のベンチャー投資家の場合は、アイディアのおもしろさという程度のことでカネを出すけど、日本の投資家の場合は、返済計画のある程度の確実さを担保として要求するんでしょうね。銀行融資が物的担保を要求しているのと大して変わりないということです。


ベンチャーと中小企業 駒形 - 2002/06/27(Thu) 08:52 No.88  

梅田君の書き込みに関連して:
以前、企業経営者の経営理念などに「事業を通じて社会に貢献」などとことごとく書いているのをみて、単に剰余価値の取得を目指し、資本蓄積を行っているにすぎないのに、なんという詭弁かと思いました。資本主義社会である以上、経済活動が資本-賃労働関係が根本原理にあるのは当然ですが、それを前提においたとして、直に経営者らに接する機会をもつにつれ、彼ら(とくに中小企業の経営者)が真剣にそのように思っているようだと思えてきました。
ただ、資本(企業)にもある種の性質の違いがあるような感じをうけます。たとえばベンチャー企業と一般の中小企業との間では、ベンチャーが比較的短期間での一発の事業の成功を重視しているのに対し、一般の中小企業は事業ないし企業としての継続性を重視しています(最近、大学の中小企業論の人事でベンチャー経営論の専門家を採用するケースがあり、個人的には疑問に思っていますが・・・)。
もちろん、ベンチャーは社会貢献などというよりは、一発あてて、という山師的なもので、社会貢献などと言われると「何を綺麗事を」と思いますが、個々の企業が崇高な理念をかかげて、その実現に努力することは、社会の便益を向上させたり、市場経済の発展をもたらしたりすることにつながると思われます。
(裏切り者のような書き込みですが、中国の私営企業をみていてそのように感じている次第です)


『従属』 投稿者:梅田 投稿日:2002/06/13(Thu) 22:03 No.72  
来週に向けて、この本で言うところの「従属」とは何かを、このスレッドでもどこでもいいので話していきましょう〜。

意見がまとまり次第、書き込みます。


Re: 『従属』 おおひら - 2002/06/15(Sat) 11:47 No.73  

まずスレッドをたててしまうのはいいことですね。文章はすぐに書けなくても、何について書くべきなのかを最初に明確にしておく方がいいもんです。

いま読んでいる本とは別に、「従属」の概念について考えていたことをまず書き込みします。「従属」の反意語は「自立」だと思いますが、「自立」の反意語には「従属」の他に「依存」というものがあります。そう考えてくると、従属と依存には何か関係があるのではないかとも思います。

とりあえずは
従属=政治的に自立していない状態
依存=経済的に自立していない状態
という定義で論文を書いているのですが、これだけでは不十分だなという感覚をもっています。


Re: 『従属』 片岡 環 - 2002/06/18(Tue) 01:32 No.76  

「従属」の反意語は「自立」でしょうか。「独立」はどうでしょう?「自立」の反意語が「依存」であるのはしっくり納得がいくのに対し、「従属」と言われるとやや抵抗を感じます。

最初の方でも「従属」の定義をみなが考えたと思いますが、
「依存」は「従属」と異なり、「自らの意思で、限度を超えて他者に寄りかかっている」というイメージであるのに対して
「従属」は「自らの意思でそうしているんだけれども、そうせざるを得ない切羽詰った何かがある」状況を想定していると思います。 


今読んでる本での「従属」 梅田 - 2002/06/18(Tue) 20:36 No.77  

自分で、話をふっていて遅くなりました。

今、本を読みかえしまして、再認識したんですが「従属」ってのは、それこそマルクス経済学の「労働者」のイメージだと思います。

個別の国家「だけ」での「発展段階」で「遅れてる」とか「進んでる」ではなく、確か前回の授業で駒形先生に御指摘を受けましたが、「世界」をみて、で、多国間での関係での理論を構築している(できているかはわからないが)のだから、その「労働者」側の国家は、気づかずのうちに「搾取」され、次第に差が大きくなっていく(とまではまだ読んでいないが、マルクス経済学における「資本家」と「労働者」は格差が大きくなっていくので・・・)。

といったことではないでしょうか?

つまり簡単に言うと、この本での「従属」は「意識されていない支配」といった感じを受けます。

普通の日常語での意味での「従属」ならば、従属している方の人は意識するかしないかは問題にならないかな、とも思います。


『従属』  - 2002/06/19(Wed) 13:58 No.78  

 この本の中では、「従属」は「依存」より実質的な強制力が強いものとしてイメージされている気がします。

 しかし中心の国々が周辺の国々を従属させているというより、すべての国が資本主義世界経済システムに従属しているという感じがします。

 トランプゲームの「大貧民」みたいなもんですかね。構造的にはある程度安定するので、大富豪と大貧民の格差は中々埋まらないでストレスがたまるが、ゲームに参加しないで一人ウォーラーステインを読むよりはまだましですよね。


今日の授業 投稿者:梅田 投稿日:2002/06/13(Thu) 22:01 No.71  
最初は、まずこのBBSには「授業のノート」を「そのまま」書くことでいいということを再確認しました。なぜなら理解が人それぞれで、どの人がどのように理解しているかが異なるからです。

さて、最初はコンビニのバイトの話や派遣会社の話が長かったですね。一番面白かったところですが・・・。
現在の日本では資本主義のシステムに矛盾があってもそれに満足していればいいんじゃないか?!というお話がありました。

また、後日話を皆でするということでしたが、「資本の有機的構成は高度化していくのか?」という問題もあります。

そして、経済学部に入っていて私が入学当初から最も疑問だった問題です。つまり
「どんな産業が物的生産を行なっているか?」
という問題です。

誰だったかは忘れましたが、経済思想史で「農業」が全ての根源だという話をしていたのもありまして、広告業・金融業(の中でも範囲が限定されるが)は虚業ではないか?という問いかけを皆さんにしました。

というのも、これは単に興味の意味での問いかけではなく、授業中も言いましたし、大平先生もおっしゃっていましたが、どうしてもマルクス経済学(ウォーラースティン含む)の想定している「発展」などは「工業」と前段階としての「農業」がその範疇としているのではないのか?という疑問からでもあります。


こないだの授業 川井 - 2002/06/16(Sun) 21:48 No.74  

ノートをそのまま書きたいけど、何がなんだかわからなくなりそうです。

今のフリーターは収奪されてはいるが、従属とは言えないのではないか。というところから労働や従属の定義の再確認にいたって
その後は第二次産業と第三次産業は区別する必要性はないというテーマで盛り上がりました。

また、コンビニの店員に客のマルクス経済学者が搾取についての
説教の話がとても面白かったです。


Re: 今日の授業 片岡 環 - 2002/06/18(Tue) 01:06 No.75  

また途中からの参加でしたが梅田君の問いかけは非常に面白かったです。モノがなければ人は生きていけないのに製造業(農業を含め)よりも広告や金融業界が儲かってしまうことは心情的にどこかおかしいのではないかと思わなくもありません。
工業化の意味 投稿者:大平 投稿日:2002/06/13(Thu) 16:59 No.69  
今日話したことはいままで一度も考えたことがないものでした。「食料生産の次になぜ工業化がつづくのか?」でしたね。人間の欲望はまず生きていくための必需品に向かい、次に自分の身体で感じ取れるものに向かう、そしてそれらがある程度満足された段階で意識で感じ取れるものに向かうという結論でした。

細かいことを言い出せば、意識と身体との区別は何ぞやみたいな議論もできますが、自分なりには農業→工業→サービス業という発展段階の意味がわかったような気がしました。


モノとカネ 大平 - 2002/06/13(Thu) 17:08 No.70  

モノとサービスとの区別は私にはわかりませんが、モノとカネとはちがうものだという教育が染み付いています。カネは効用を生み出さないけれど、モノは効用を生み出すという区別です。この理解をするときには、決済手段としてだけ機能する財のことをカネと呼んでいます。


無題 投稿者: 投稿日:2002/06/12(Wed) 19:04 No.67  
遅れてすみません
今回はこれといって意見もないので
前回の授業の流れと内容を簡単にまとめておきます。

▼「マルクスの言っていること(又はマルクス経済学)はソ連の崩壊で否定された?」は正しいか?(マルクス経済学はマルクスの主張の事だと考えていました。お恥ずかしい・・)

マルクス自身は資本主義の矛盾を強調している面が強く、発展のメカ二ズムとしての社会主義に関しては詳しく言明していない。

どちらかといえば「現在も資本主義が存続しているのでマルクスは間違っていた」の方が正しい。

▼マル経用語は日常言語と違う意味で用いられている場合があるので要注意。

−矛盾
本来そうあるべき姿を達成していない状態。(この部分よくわかりませんでした)

−物神性
貨幣の物神性など本来別の用途から派生してきたものに対して価値がはっせいしてしまう。近経にも貨幣を効用関数に入れる研究分野があるが、マル経はそれを必然的な事実として組み入れている。
他にも疎外、権原 などなど

▼学者と政治家/実務家
時系列分析の研究で分かったことは、将来予測は不可能ということ。学者は選択肢の提示と批判をするだけで、意思決定に必要なのは論理ではなくある種の直感であろう。(これに関しては違和感を覚えました。今までの直感に頼った経営・政策決定ではなく、リスクとリターンをある程度統計的、確率論的に分析してROIの高いプロジェクトから取り組んでいく。という手法がもてはやされている気がするのですが・・・)

▼3章について
1.ここでウォーラステインが問題にしているなんの不平等か?
→物・財だけでなく、決定権の配分といえるのではないか

2.こういった形の論文はどの程度学問といえるか?
→そもそも学問とは何か?

3.3章の要点は?
→前半では発展史観を批判して、後半部分ではマルクス経済学の枠組みを国単位から世界単位にしようという試みを主張している。

▼思想と現実の関係について
ある思想を生み出す時代の空気があり、その思想がまた空気を強化する。どちらが先というより、相互連関的に醸成されていくものではないか。


確率の高さ 梅田 - 2002/06/12(Wed) 19:36 No.68  

宝くじみたいなもんですよね。
つまり、ハイリスクならばハイリターンなもの(証券、株)などがありますよね。

じゃあ、それが統計学的期待値から照らし合わせて元がとれないから、(個人でなく)企業が投資をしないかと言われれば、投資をしない「ほうが多い」ということだけではないでしょうか。

勿論、直感「だけ」に頼った経営とかは、ありえないとも思いますが、理論をどこまでつきつめてみても、最終的には「現実全て」を把握するのは不可能であるために、一つの「指標」「指針」にしかなりえない(それが悪い・使えない等ということが言いたいわけではない)。
最終的な決断は、経営者の理論の先にある「選択の自由」がモノを言うのではないでしょうか?


Capitalism and its troub... 投稿者:カタオカ 投稿日:2002/06/08(Sat) 14:27 No.65  
The EconomistのホームページでSurvey:International Finance
Capitalism and its troubles が読めます。

http://www.economist.com/surveys/displaystory.cfm?story_id=1119801

長くてまだ読みきれません…。どなたか英語が得意な方Summaryでも教えてください。


授業について 投稿者:カタオカ 投稿日:2002/06/07(Fri) 16:10 No.60  
今日も遅刻ですみませんでした。
30分ばかりの出席でしたが一応書き込みします。

3章は富の分配のみならず決定権の分配まで視野にいれた、極めてマルクス主義的な構造であるという内容だったと思います。

今までも議論してきたことですが社会科学と自然科学の対比は
興味深いです。社会科学は独自の視点から新たな事象(現象?)
を存在せしめるという意見は面白かったです。
「学歴社会は本当に存在するのか」という問題も社会科学が生み出した独特の議論ではないかと思います。

しばらくきちんと読んでいなかったのでキャッチアップに努めたいと思います。 



今日の授業 投稿者:梅田 投稿日:2002/06/06(Thu) 21:30 No.58  
ウォーラステインがマルクス経済学に依拠しているためもあって、今日はマルクス経済学に関する「用語」が非常に興味深かったです。

最初大学入ってから、「マルクス経済学にはこういう言葉が使われる」と思い込んで勉強していたという感じが私の中であったようです。

用語として今日出てきたものとしては
「矛盾」「物神性」「疎外」「権原」「転形」「大いさ」
ぐらいでしょうか

もう一度、マルクス経済学のノート復習してみましたが、やはり「権原」と「大いさ」見られませんでした。

延近先生も、「物神性」は一応教えてはいますが
「貨幣が、あたかも神のような特性をもつ」
といった説明を重視していて、用語そのものは、全くと言っていいほど押し付けていませんでした。

今日は授業で出ませんでしたが、「搾取」は用語そのものから、延近先生は説明してましたが・・・マルクス経済学の根幹をなすものなので当然だと思いますが。

それと学者に求められるものと経営者に求められるものが異なるといった話は、非常に興味深いものでした。
頭でわかってはいるものの、再び指摘されるとハッとさせられることだと思いました。


用語 川井 - 2002/06/07(Fri) 10:39 No.59  

権原と大いさはどういう意味なんでしょうか。

経済学の用語は普段使っている意味とは違う意味を示す
こともあるので(たとえば限界など)今でも悩んだりします。

あと学者と経営者に求められるものが違うというのは
どういうことですか?


私もわかりません カタオカ - 2002/06/07(Fri) 16:12 No.61  

延近先生のマルクスは私も履修していましたが 確かあんまり進まない授業でしたよね? 教科書の後ろの方を見ると載っているのでしょうかね。「権原」はともかく、「大いさ」とは何でしょうか?




私もよくわかっていません 梅田 - 2002/06/07(Fri) 19:23 No.62  

■「大いさ」・・・これは「大きさ」ってことらしいです。昔の人が訳したときに「大いさ」としたので、それが定着してしまったとのこと。

■「権原」・・・これは「権力の源」「権力の本源」っていう意味だったと思います。あれ?じゃあ、「権原」じゃなく「権源」でしたっけ?わからなくなりました・・・

でも確か、そういう意味でした。

PS、延近先生は、進んだほうですよ。ほかの先生と比べても、例年に比べても。

確かに、一つ一つがしっかり論理だってやっていたため、進行は遅く感じましたね。


ちなみに、その講義ノートを基にして、サークルで後輩にマルクス経済学をしこんでいましたが、ものの1ヶ月で1年分終わりました。でも間違いなく理解はしていないと思います(苦笑)。


学者と経営者 梅田 - 2002/06/07(Fri) 22:52 No.63  

学者というものは、そもそも助言をすることしかできないものなんです。未来を予測するというのは不可能であるからです。
それゆえ「こうすれば(他の条件をして一定ならば!!)こうなる」といったことは言えますが、逆にいうとそういうこと「しか」言えないのです。

そして、多くの政策というか発案があるなかで、そのなかから未来に対して最善と思われるものを「選択」し、「行動」するのは「経営者」のなせるわざであり、そこには「論理」などが介在する余地がない「直感」が必要なものであります。


学者のところの説明をかなり大雑把にしていますのであしからず。詳しくはまた後日書きたいと思います。


学者について 梅田 - 2002/06/11(Tue) 20:34 No.66  

読みやすくて薄いものとして

◆『知識人の生態』西部邁 PHP新書

ですね。

そもそも学者ってのは、村はずれにすんでる「奇人」であり、村が平和な時には何もすることがない。だが、一端村で問題が起きて、その問題が長期的に解決しない際に、そうだ、あそこの奇人に聞いてみよう。ということになり、そして「奇人」である知識人がそれに答えて「自らの見解」を示す。そしてその「見解」を村人が受け入れるか否かは、村人に委ねられる(そのなかでも特に統治者=経営者!!)。

そんな話も書いてあります。
科学 投稿者:駒形 投稿日:2002/06/06(Thu) 08:27 No.55  
先週の議論のなかで、科学の定義について、反証可能な命題があれば科学になると理解しましたが(正しいのでしょうか?)、定義としてクリアではあっても狭いのではないかとも感じます。
どんな事実を積み重ねてきても、結局最後には各々の歴史認識や哲学にもとづいて結論を下すものであって、客観的方法をアプライしていると思っていてもその方法自体、背後に思想・哲学が反映されているのではないでしょうか。もし上記の定義に限定すると科学とは自然科学しかなくなってしまうように感じますが・・・。


なるほど 梅田 - 2002/06/06(Thu) 16:43 No.56  

今日の授業の最後でも発言しましたが、確かに狭義の意味での科学は私から見ると極力「主観」(価値?)をいれないような感じになっているように思われます。

ただ、やはり最終的な決断や思考体系は、思想・哲学のなすところだと思います。

それこそ経済史における、歴史実証主義と大塚史学(M・ウェーバーの理念型)の抗争ではありませんが、どちらか一方だけでも駄目だと私は考えています。
(この二者の抗争は非常に学ぶところが多いものだと思います。)

でもどちらの用件もほどほどに満たすのが望ましいんだろうと思いますが、そうするとその「ほどほどに」っていうのはどの程度?という線引きができるのか?という問題になります。

いろいろ難しい問題ですが、社会科学のなかでもとりわけ経済学はまさに社会科学と自然科学の中間に位置する学問で波紋が大きなところだという感じが、大学に入ってから思っています。


梅田君ご紹介のメルマガ:... 投稿者:駒形 投稿日:2002/06/06(Thu) 08:01 No.54  
皆さんよりワンテンポ以上遅れての書き込みで失礼します。
過日、梅田君が紹介してくれたメルマガの「限界革命はどこが革命なのか」の末尾の部分について疑問があります。

末尾部分「もしも、一人でもよいから、鳥のような地平超越的な認識能力を持つ人がいるのなら、その人にユートピアの建設を完全に任せる計画経済の方が、それぞれ狭い地平の内部で私的利益を極大化しようとする虫たちを自由放任にしている市場経済よりも優れていることは言うまでもない。しかしながら、スターリンにせよ毛沢東にせよ、計画経済の指導者もまた、私たちと同じ有限な人間でしかなかった。虫ほどの能力しかない人が鳥のような能力があるとうぬぼれることほど危険なことはない。鳥を自称する一匹の虫の後を全ての虫がぞろぞろとついていくよりも、たくさんの虫が、それぞれ自由に極大を目指して登山する方が、リスクが少ないし、到着地点の平均的な高さも高くなる。超越的経済学であるマルクス主義経済学が超越論的経済学である近代経済学によって淘汰された所以である。」

マルクスは資本・賃労働関係を軸に資本主義の発展性と問題性を叙述したのみで、少数者が集権的に決定するシステムを支持しているわけではありません。マルクスは、労働者階級による自己決定の回復を希求しているのであって、筆者のいう「超越的経済学」という評価はあたらないと思います。むしろアジアの高度成長を説明しようとする「開発独裁」のほうが「超越的」ではないでしょうか。



このメルマガは・・・ 梅田 - 2002/06/06(Thu) 21:18 No.57  

多大なる「偏見」が入ってます。それも相当の思い込み。

これこそ前々回から授業で問題となっているような、
「科学者のおごり」
の一端を示すものだと思います。

何か、非常に「きめつけ」というものが横行している文章ですよね。この文。
マルクス主義経済学が、あたかもハイエクが批判したところのソ連型・中国型(?)「マルクス主義」(マルクス経済学ではない!!)と「マルクス経済学」をごっちゃごっちゃにしちゃってます。

こういうのが、現在のマルクス経済学における認識の一端を示していると思うと、なかなか情けない気もします。

今日も授業の冒頭でありましたが、ソ連が崩壊したと同時にマルクス経済学の終わりを意味したと考える人々が多いのも、上記のような文章と無縁のことではないかもしれません。

何か現行で主流でない学問に対して「非難」を加えるのは非常に容易ですが、そのような学問を「知る」ことがまず第一歩だと思います。


世界観 投稿者:川井 投稿日:2002/06/05(Wed) 17:43 No.49  
ミクロ経済学・マクロ経済学・近代経済学それぞれの世界観が異なっているというところに興味を持ちました。同じ経済学でくくっているので
同じスタンスで見ているものだと漠然と思っていました。
 
また、命題が反証できるかどうかを科学の定義だとすると科学としての経済学はマクロと計量しかあてはまらないんですよね。となると今までにない世界観を提示し、それを経済学に用いるなら新たな経済学が出来るのでしょうか?疑問に思いました。

私事ですが病院に行きますので明日の演習は欠席させていただきます。
明日の議論の内容でも書いてくれると助かります。では。


出欠 大平 - 2002/06/05(Wed) 18:16 No.50  

川井君がここに欠席の連絡をしたことは、非常によいことだと思います。どうしても避けることのできない用事がある場合、授業を欠席することはやむをえません。ただし、その場合も事前に掲示板で連絡をすることにしましょう。理由を細かく説明する必要はありません。

今週は全員がさぼってしまいましたが、必ず毎週、出席者がその日に発言したこと、自分が理解したことを書き込むようにしましょう。欠席した人は欠席した人なりに書き込みをすることによって、授業に貢献することにしましょう。

この授業のような少人数の授業では、毎回出席をすることが決定的に重要です。教室に出て来れない場合には掲示板上で何らかの形で授業に「出席する」ことを義務にしましょう。


無題 投稿者: 投稿日:2002/06/05(Wed) 03:19 No.48  
 経済学(特にミクロ)が1つの世界観の提示に過ぎないというお話には妙に納得できました。モデルとか理論とかがどうも苦手というかうさんくさいものを感じていたんですが、こう理解すればすっきりします。
  
 「効用最大化と均衡という仮定が仮にフィクションだとしても、分析ツールとしてかなり役に立つからいいんだ」という認識でいいのかな・・・。科学としてとらえるのであれば、公理化している上の2点に関しても反証にさらされるべきでなのでしょうか。

P・クルーグマンがこうした仮定についての意見を述べています。参考までに
http://web.mit.edu/krugman/www/evolute.html

でも科学として確立するためというより、経済学は政策提言と密接に結びついているので、人間行動についてはより現実にちかいものに近づけていく必要があると思います。

 実験経済学?を作った?サーラー教授のお話です。参考までに
http://www.nytimes.com/library/magazine/home/20010211mag-econ.html


仮定と結論 大平 - 2002/06/05(Wed) 19:08 No.51  

科学であるために反証可能性が要求されているのは公理系から導き出された結論(命題)だけです。仮定は反証可能でなくてもいいんです。「効用最大化という仮定→反証可能な命題」という体系があれば、この体系全体は科学になります。しかし、議論の出発点にある効用最大化自体は反証可能性をもたなくていいんです。

ミクロ経済学も反証可能な命題をいくつも提示しています。以前に梅田君が問題にしていた部分均衡分析は、科学的な命題をいくつも出しています。一般均衡分析だって、反証可能性をもつ命題を導くことがあります。商学部の黒田先生はこのような研究で非常に有名です。

ミクロ経済学がすべて非科学的であると発言したかのように思われるちょっと困ります。パレート最適のはなしであるとか、そもそも議論の出発点となる効用最大化の話は科学的な命題ではないということは言いましたが、ミクロ経済学が科学的命題を生み出さないということは言っていません。



科学と世界観 大平 - 2002/06/05(Wed) 19:10 No.52  

「科学的な命題」と「世界観」との関係ですが、まったく独立というわけではなく、重なる部分もあるはずです。この2つの概念を二律背反であるかのように理解しないほうが賢明だと思います。


科学的な命題と世界観 梅田 - 2002/06/05(Wed) 22:31 No.53  

私もこの関係はまったく独立だとは思いません。
重なる部分もあると思います。
それこそ一時期の経験主義と合理主義ではありませんが、どちらがよろしいということもないはず。

科学的な命題が元にこそなれ、世界観なくして、それ「だけ」では私が望むところの「科学」たりえないんではないかなぁと考えます。

それは「世界観」だけでも、壁(限界)ができあがるのもまた真だと思います。

なんか私の発言の言説、過激な感じですね・・・


公理系…? カタオカ - 2002/06/08(Sat) 14:20 No.64  

あのぅ、公理系とは何ですか?

科学的な命題を作りうるといったところで「経済学という世界観」の中での「科学的命題」に過ぎないのでは…?だからといって意味がないとか非科学的だとは思いませんし、「科学的な命題」と「世界観」が二律背反だとも思いません。それが妙な具合にこんがらがっているからこそわかりにくくて性質が悪いと感じています…


世界観の提示としての社会... 投稿者:大平 投稿日:2002/05/30(Thu) 12:53 No.46  
経済学は科学であるかどうか。反証可能性のある命題の提示という考え方を重視する論理実証主義の意味での科学であるとは言えない経済学もあります。そんな話を今日しました。自分が世界をどのように見るかに関する世界観の提示という意味合いもあるのではないかというのが私の意見です。

考えてみると、アダム・スミスの国富論がいい例です。彼はいわゆるモデル分析をおこなったわけではなく、利己心だけで生きる人間が集まっていても「神の見えざる手の導き」で秩序ある状態が実現するという世界観を提示しています。

科学であるほうが、観察事実に照らした上で、めいだいが正しいかまちがっているかを判断することができますが、世界観の提示をするだけでも、世の中をどのように理解するかという思想・哲学が広がります。


科学哲学 梅田 - 2002/06/01(Sat) 00:17 No.47  

科学哲学の問題に大学一年当時に興味があって、色々読んでて反証可能性の話が一番面白かったんですが、まさかミクロ経済学まで・・・う〜ん、また考えさせられました。

確かにポパーによれば、「発想・思いつき」と「方法・証明」の峻別をつけ、後者が「科学」の要件、つまりここで言えば反証可能性を含意している命題であるならば、その命題は「科学」としてよろし。ということを言っとりました。

あまり関係ない話ですが、ちょうど、私がとってるメルマガで、ミクロの話が、あったのでリンク張っておきます。
限界革命:http://www.nice.st/lecture/0135.htm
効用について:http://www.nice.st/lecture/0136.htm
効用についての方は、あまり知られていない考えも載っていて、面白いです。限界革命の方はありきたり。


世界観の提示・・・確かにそうなのかもしれません。世の中をどう理解するか・・・もう色々ちょっと考えてみます。