文字の発明とともに文明がはじまって数千年、19世紀の初頭まで、目の不自由な人に適した文字はありませんでした。点字以前に、目の不自由な人が読める文字がなかったわけではありません。いろいろの材料を用いて、普通の文字の形をそのまま手で触れるように工夫した物が各地でつかわれていました。世界で最初の盲学校であるパリの訓盲院でも、創立者のバランタン・アユイが考案した浮き出し文字がつかわれていました。しかし、これは本をつくるのに手間がかかるうえに、目の不自由な人にとっては読みにくく、自分自身で書くことができない文字でした。
暗号用の「夜の文字」として、たて6点、よこ2列の12点点字を考案していた砲兵大尉のシャール・バルビエが、パリ訓盲院の職員や生徒にそれを紹介したのは1821年のことでした。これを聞いた生徒の一人で、12歳のルイ・ブライユは感激し、同室の友達と手紙の交換などをしてみました。三歳で失明していたルイ・ブライユは、12点では手で読むのに長すぎると気づき、たて3点、よこ2列の6点にすることを考えました。その後、1825年までにアルファベットと数字を、音楽教師になった1828年には楽譜を考案し、翌年論文にまとめて発表しました。しかし、反対も多く、公式の文字として認められたのは、彼の死後2年たった1854年になってからのことでした。
その後、点字は世界各国に普及していきましたが、なかでも、イギリスとアメリカでは飛躍的に広がりました。早くも、1868年にボストン市立図書館に点字部が設置されました。当時、出版されたものは宗教書や教科書にとどまりがちでしたが、1881年にイギリスで、点字雑誌『プログレス』の発行もみています。
1890年代のはじめに、アメリカのH・ホールが、点字タイプライターと亜鉛板製版・印刷機を考案して、点字図書の製作に大きな貢献をしました。1897年にはワシントンの国会図書館が、目の不自由な人のための特別閲覧室を設け、1904年には無料郵送貸し出しをはじめています。この間、ロンドンでは、音楽、数学、化学の点字表記法を出版しています。
一方、録音図書の出現は、点字図書にくらべてかなり遅れています。普通の文字を目の見える人に読んでもらうことは、はるか昔からおこなわれていたはずですが、録音装置が開発されるまでは、図書にはならなかったからです。蓄音機で再生するトーキング・ブック・レコードは、1929年にアメリカ点字出版所で製作され、1935年にはイギリス盲人協会からも、LP盤で製作されるようになりました。
1951年にはニューヨークに専門書の録音を主として取り扱う図書館として、レコーディング・フォー・ザ・ブラインドが創立され、1964年にはイギリス盲人協会の中に専門書の録音図書館として、ステューデント・テープ・ライブラリーが創立されました。この間、1958年にはワシントンの国会図書館で、オープンリールのテープ図書の製作が開始され、1959年にはイギリス盲人協会で、18時間のカセットテープ図書の製作がおこなわれるようになりました。
日本の点字は、1890(明治23)年にルイ・ブライユの6点点字をもとにして、石川倉次が考案したものです。1892(明治25)年に点字板<岸 博実先生によるコメント「1891(明治24)年に京都の島津製作所が点字器を製造しています。」>が、1909(明治42)年に亜鉛板製版・印刷機<岸 博実先生によるコメント「鈴木力二P39には異説もあり」>が国産化されたことによって、点字図書製作の基盤ができました。1910(明治43)年には日本盲人協会<岸 博実先生によるコメント「1906(明治39)年 好本督、左近允孝之進ら『日本盲人会』を結成、点字出版にも着手しました」>、1917(大正6)年には東京光の家<岸 博実先生によるコメント「前身の盲人基督信仰会は大正8年、東京光の家は昭和8年?」>、1922(大正11)年にはライトハウス(現在の日本ライトハウスの前身)、1926(大正15)年には日本鍼按協会(現在の東京点字出版所)などが設立され、点字図書の出版を開始しました。なお、点字新聞も、1905(明治38)年に神戸六甲社<岸 博実先生によるコメント「六光社」>の「あけぼの」が、1917(大正6)年<岸 博実先生によるコメント「1919(大正8)年>には中村京太郎の「あけぼの」が、さらに1922(大正11)年には「点字大阪毎日」(現在の点字毎日)が、1925(大正14)年には「日刊東洋点字新聞」が創刊されました。そのうち、現在まで続いているのは「点字毎日」だけです。また、その頃の点字図書の多くは、教科書や東洋医学書あるいは宗教書などに過ぎませんでした。
点字図書館については、1904(明治37)年<岸 博実先生によるコメント「1902(明治35)年 真英国」>に好本督が、東京盲学校の同窓会誌「六星の光」に、イギリスの盲人図書館の状況を報告し、日本での必要性を説いて以来、点字図書館設立の気運がしだいに高まってきました。1915(大正4)年に東京盲学校と東京盲人教育会、1916(大正5)年に東京市本郷図書館、1919(大正8)年に新潟県立図書館、1920(大正9)年に柏崎市の新潟県盲人協会の点字巡回文庫、1921(大正10)年に文京盲学校、1927(昭和2)年に石川県立図書館、1928(昭和3)年に岩橋武夫宅と徳島県立図書館、1929(昭和4)年に鹿児島県立図書館と名古屋市立鶴舞図書館および長野県立図書館で、点字図書の閲覧や貸し出しをはじめています。ただ、いずれの場合も点字図書は、200〜300冊程度で、その後あまり発展しませんでした。それは、当時出版されていた点字図書が少なく、多くの点字図書を収集することができなかったためです。そのため、1933(昭和8)年の第27回全国図書館大会で、「点字図書及び盲人閲覧者の取り扱い」という議題で討議され、各地の状況報告がおこなわれ、点字図書の収集・閲覧に取り組むことが決意されていますが、その後もはかばかしい進展は見られませんでした。
1940(昭和15)年には本間一夫により日本盲人図書館(現在の日本点字図書館)が創立され、700冊の蔵書で閲覧や貸し出しを開始しました。戦中・戦後の混乱の中で、創立当初の目標である蔵書数5000冊を、11年間で達成できたのは、関係者のひたむきさはもとよりのことですが、創立と同時に社会教育家の後藤静香によって開始された点訳奉仕運動に負うところが大きかったのです。従来の図書館が成し得なかったことで、一般の図書を点字に直すという事業を、点訳奉仕運動の支えによっておこなったことが、画期的な成果をもたらしたのでした。また、点訳書の多くが、それまで数少なかった内外の名作であったため、読書の強い支持を受け、閲覧や貸し出しがふえたことも見逃すことができません。
1951(昭和26)年に上田市立図書館点字部(現在の長野県上田点字図書館)、1952(昭和27)年に帯広の北海点字図書館が開設される一方で、各地の公共図書館から盲学校への点字書委託貸し出しが開始されました。また、日本赤十字社が各地の支部活動として、点字図書の収集や盲学校への委託貸し出しとともに、点訳奉仕運動を開始したので利用者の利便と蔵書数はしだいに増えてきました。点訳奉仕者への感謝のつどいが開始されたのもこの頃からで、のちに鉄道弘済会がこれを支援し、マスコミがそれを採りあげるようになったことから、点訳奉仕活動が社会的に広く評価されて、奉仕者の数もしだいに増えてきました。
点訳奉仕運動と並んで、点字図書の増加を飛躍的にもたらしたものは、公費による点字図書の製作や貸し出しの委託でした。1954(昭和29)年度に厚生省は、日本点字図書館に対して点字図書の点字出版および貸し出しを委託して、全国の点字図書館に委託貸し出しをするようになりました。1957(昭和32)年に厚生省は、点字図書館設置基準暫定案を作成し、点字図書館の育成にのりだしたので、各地に点字図書館が設立されるようになりました。1963(昭和38)年から厚生省は日本ライトハウスを通して、児童図書の製作と全国の点字図書館への委託貸し出し事業を開始しています。一方、文部省でも就学奨励法の制定で点字教科書の無償配布を、1954(昭和29)年から義務課程で、1956(昭和31)年から高等部でおこなうようになりました。さらに、1957(昭和32)年からは義務教育の点字教科書を、点字毎日新聞社に加えて、日本ライトハウスや東京点字出版所にも委託して出版するようになりました。義務教育課程の点字教科書の出版については、のちに点字毎日新聞社にかわって東京ヘレン・ケラー協会も関与しています。
わが国では、トーキング・ブック・レコードはコストの関係で製作されませんでしたので、録音図書の出現はオープンリールのテープレコーダーの普及をまつしかありませんでした。東京教育大学(現在の筑波大学)附属盲学校の寄宿舎では、1955(昭和30)年頃から、オープンリールのテープレコーダーが個人的につかわれはじめ、読書サークルの対面朗読や欠席者のための回覧用につかわれていました。1957(昭和32)年に入ると、中目黒教会の婦人部有志が録音して寄宿舎に届け、仲間で回覧したり集まったりしてそれを聴くようになりました。その年の二月に国際キリスト教奉仕団では、小さなテープライブラリーを開始していましたが、これが日本で最初のテープライブラリーということができるでしょう。なお、四月には徳島県立図書館でも声の図書館を発足させています。翌1958(昭和33)年には附属盲学校の生徒たちの要請にこたえて、日本点字図書館がテープライブラリーを開設し、翌1959年に開設した日本ライトハウスとともに、大規模な活動へのスタートを切りました。その後、各地の点字図書館でテープライブラリーを併設し、今では蔵書数、貸し出し数ともに点字図書をしのいでいます。1979(昭和54)年からは、厚生省が日本点字図書館と日本ライトハウスに委託してテープ図書の製作と貸し出しの事業をおこなっています。最近では、テープ図書だけではなく、テープ雑誌がしだいに増えていることも特色のひとつです。さらに、カセットテープレコーダーの普及につれて、カセットテープへの切りかえが進行しています。
1950年代の初期の頃から盲大学生や盲学校の生徒の間で、自分が必要とする本を読んでほしいというニーズがしだいに高まってきて、対面朗読や録音あるいは点訳等のプライベートサービスをおこなう奉仕グループが各地に結成されてきていました。また、専門書の点訳や録音をおこなうためのステューデント・ライブラリーの開設を要望する声も高まってきていました。このような気運を背景にして、1969(昭和44)年には盲大学生や附属盲学校の卒業生などが中心となって、東京都立日比谷図書館の開放運動をおこない、翌年には視覚障害者読書権保障協議会を結成しました。東京都立日比谷図書館では、1970(昭和45)年に入るとすぐに、視力障害者用読書室を設置し、録音図書の吹き込みと対面朗読を開始しました。これをきっかけに、各地の公共図書館や点字図書館で、対面朗読や録音あるいは点訳などのプライベートサービスをもおこなうようになってきました。
点字図書館のテープライブラリーとともに、各地の公共図書館でも録音図書の製作や収集をおこなうようになるにつれて、サービスのむだな重複が問題となり、1974(昭和49)年の全国公共図書館奉仕部門研究会で、テープ図書の総合目録を日本点字図書館協会でつくるよう提案がありました。その後いくつかの経過を経て、1981年から、国会図書館が全国点字図書・録音図書の総合目録(新収のみ)を作成するようになりました。これに関連して、全国の点字図書館や公共図書館が、相互の貸し出しをおこなう方向が打ち出されてきました。これを実のあるものとするためには、それぞれの役割を分担し、それぞれの図書館が特色のある蔵書を充実させるとともに、点訳図書などでは複製がとれるような技術的態勢を整備する必要があるのです。
1974年にオプタコン(普通の文字の形をそのままに指先の振動触覚で読みとる電子機器)がアメリカから導入されて、アルファベットや数字だけではなく、かな文字や漢字も読みとる人がしだいに増えてきています。オプタコンは高価で、しかも点字ほど、速く読むことはできませんが、必要なものを必要な時に即座に自分で読むことができるという点で優れています。最近では、つぎつぎにマイクロコンピュータによって点字や音声の情報を処理する機械が開発されています。一方、目の不自由な人の側から、日常生活や学習あるいは職業などのあらゆる場面で、文字情報を自由に処理できるようになりたいという願いが強く出されてきています。このような事態にどう対処すればよいのかという課題が生じています。1982年の全国図書館大会の障害者サービス分科会では、発想の転換を求めて討議がなされました。また、日本盲人社会福祉施設協議会の点字図書館部会や点字出版部会などでも、このような課題とのとりくみが検討されています。(本節の執筆にあたっては、渡辺勲「日本における図書館の障害者サービス年表」日本図書館協会編『図書館と国際障害者年』1982年、106-127ページ、などを参考にさせていただきました。)
目の不自由な人の読書の必要にこたえるためには、点字出版所や点字図書館(テープライブラリーをも含む)あるいは公共図書館などの職員はもとよりのこと、点訳や朗読の奉仕者あるいは機器の開発や評価の担当者は、どのような観点でとりくめばよいでしょうか。少なくとも次の四つの観点が必要ではないかと思われます。
人びとの読書傾向は、時代や地域、世代や性別、知識や興味などによってさまざまです。一人の人をとってみても年々かわっていきます。普通の活字本はそれに応ずることができるように、多様に準備されています。しかし、点字図書や録音図書の場合は、まだ種類がきわめて少ないため、ベストセラーや内外の名作ものにかたよる傾向があります。一方、読者の方は目の見える人と同じように多様なニーズをもっているのです。1億1000万人の国民の中で、1000冊しか必要でない特殊な本であれば、30数万人の目の不自由な人の中では、3冊しか必要でないという計算になります。この3冊をどのようにして製作するかという問題、いいかえれば多種目で少量の需要にどうこたえるかという課題を、追求することが問われているのです。図書館間の相互貸し出しをおこなうというのであれば、たとえば郷土史や郷土地理あるいはその地域の民話などの類に関しては、それぞれの地域の点字図書館や公共図書館が各自製作し所蔵しておく必要があるのです。また、各分野の専門書あるいは趣味の図書や雑誌なども、各分野ごとに役割分担をして、各自充実させるのもよいでしょう。そのような機能別の図書館については、全国貸し出しをするのもよいと思います。その意味で、貸し出しが集中するベストセラーは同じ物が各地に分散していてもよいのですが、内外の名作や古典などは、文学書であっても一つの機能別の分野として、全国で一つか二つの点字図書館が担当すれば十分ではないでしょうか。地域の点字図書館や公共図書館は、もっとプライベートサービスに徹して、一人ひとりのその時どきの必要にこたえることが求められているのではないでしょうか。
目の不自由な読者にとっては、必要なものを必要な時に即座に読めることが願いなのです。古典ものや長い期間にわたって何回も熟読される図書は、正確に点訳したり録音したりして所蔵しておけば、必要が生じた時に閲覧や貸し出しが即座になされるから、製作時間が多少かかっても問題はそれほど深刻ではありません。しかし、時事ものや流行もの、あるいはすぐに変更される情報などは、遅れて読んだのでは価値がありません。それらについては、できるだけ速く提供できる方法を努力すべきでしょう。機器の開発にあたっては、この即時性がもっとも要求されているところです。
点字図書の場合は、熟練した読み手でさえあれば、必要なところはゆっくり読み、不必要なところは速読みしたりとばしたりすることができます。また、辞書や参考書などのように必要な場所を探して読む場合には、目次とページや本文中の見出しや段落あるいは欄外の見出しなどを巧みに用いて、目的を果たすことができます。しかし、録音図書の場合には多少問題があります。音のインデックスを入れておいて、早送りや巻戻しに際して、必要な章や節あるいはページなどをすぐ探せるようにしたり、速度を自由にかえても声の高さがかわらない録音機の開発も必要でしょう。芸術的な朗読を読まれた順序に聴く場合は別ですが、何か必要な個所を探すような図書の場合には、このような速度調節や音のインデックスがきわめて重要になるのです。マイクロコンピュータを内蔵した機器の開発に際しては、文字データを磁気ディスクのように即座に検索できる媒体に記憶させておくことが必要です。
点字図書の場合は正確できれいなものがよいわけです。録音図書の場合も正確で聴きやすい朗読が望ましいのです。プライベートサービスの場合は、対話をしながら訂正できるので、あまり神経質になる必要はありませんが、蔵書となれば、点字図書でも録音図書でも、これらの点が必要不可欠となるのです。なぜならば、読者が問い直すことが、プライベートサービスの時ほど容易ではないからです。マイクロコンピュータを内蔵した機械の場合には、99.99%程度の正確さを要求されるうえに、点字の手ざわりや形あるいは寸法などの読みやすさを要求されたり、合成音声のなめらかさやアクセント、抑揚あるいはポーズの長さなどの聴きやすさを要求されています。まして人の場合は、点字出版や朗読のプロはもとよりのこと、奉仕者であっても、その仕事の内容に関する限り、その道の専門家であることが求められるようになっているのです。
マイクロコンピュータを用いた自動点訳とか自動朗読などということばを聞くと、もう人が点訳や朗読をする必要がなくなるのではないかと思われるむきもあります。しかし、現在の優れた科学技術を駆使しても、人がやっている仕事のすべてを機械にやらせることはできないのです。確かに、ある一部分については、人より能率よく正確におこなうことができる部門もあります。ですから、もしそういう機能を果たす機械が出現したら、そのような部門は機械にまかせて、人は最も得意とする部門を受けもち、仕事を全体として拡張していくことが、目の不自由な人の読書の範囲を広げる結果をもたらすことになるのではないでしょうか。その意味で、新しい機械が開発され、実用機として出現した時には、その働きをよくみきわめて対処すればよいのです。
現在、全国の盲学校を中心に、昨年度までに二十数台配置されている「ブレールマスター」という装置は、もともと「点字複製装置」として通産省の委託で開発されたものです。点訳奉仕者が時間をかけてていねいに点訳した点字図書は、一部しかありませんから、同時に閲覧や貸し出しの希望がくれば、他の人は次の機会を待つしかないのです。しかも何人もの人がそれを読んでいる間に、すりへったりつぶれたりよごれたりして、いつかは読めなくなってしまいます。そこで、それらの問題を解決するために、B5判たて長の点字用紙の片面に一部だけ点訳すれば、それを自動的に読み取って、必要な部数を複製するようにしたのがこの装置です。また、校正の結果、間違っている部分や抜けた部分があれば、テレビ画面の上に写し出して、即座に訂正することができるのです。
ただ、点字板で一点ずつ苦労して点訳した手作りの味は原本に残されて、読者に渡るのは、ラインプリンタや亜鉛板印刷機で印刷したものになりますから、点字出版物と同様の手ざわりになってしまうのです。そこで、手作りの味を大切にする奉仕者や読者にとってはがまんしなければならないものとなるのです。そのかわり、急いで点訳しなければならないものについては、何人かで分担して点訳し、一人の人が編集・校正すれば、早くできるうえに、一人の人が点訳したようなできばえとなります。このように発想を転換することによって、前に述べた四つの観点をできるだけ多く満たすことができるのです。
自動点訳といっても、現在のところ点字のわかち書きの規則を知っている人がかな文字キーで入力するか、漢字かな交じり文から、わかち書きされたかな文字体系の点字にいったん変換された後で、多くの誤りを人が訂正してやらなければならないのが現状です。ただ、漢字かな交じり文に対応する漢字の点字記号を、目の不自由な人が覚えさえすれば、何とか自動点訳できるようにはなっています。確かに、これは便利ですので、漢字の点字記号を新たに学習できる人にはよい方法なのですが、今まで漢字を知らなかった目の不自由な人のすべてに、その学習を要求することはできません。
いずれ近い将来、漢字かな交じり文をもっと正確に読み取って、合成音声やかな文字体系の点字にかえて提示できる機械が開発される可能性があります。その場合でも、文庫本の大きさで明朝体で印刷されたものであれば、かなり正確に読めるものができると思いますが、現実の文字情報は、さまざまな大きさや、字体で印刷されており、図表の中に印刷されたものや複雑なデザインのものもありますから、どんな文字でも読み取るというわけにはいかないのです。また、数学記号や図形的な要素を含んだ理科や地図の記号のようなものを、すぐに読み取ることができる機械の開発は、現在ではまだむずかしいのです。
一方、読者の方は今まで通りの読書傾向の中にいつまでもとどまってはいません。一方で各種の専門書や趣味の図書を必要とする人もいれば、他方でカラオケの歌詞や料理のメニューなどのようなものを必要としている人もあります。そこで、機械には単純な字体と形式の図書をまかせるとか、辞書や百科事典あるいは電話帳や年鑑など、必要な個所だけ急いで検索すればよいものをまかせればよいのです。その上で、人は機械が読み取れない内容や形式のものを引き受けたり、機械を活用できないような場で目の不自由な人を援助すればよいのではないでしょうか。しかも、これは将来機械が開発された後のことであって、現在では人にかなう機械はまだないのですから、人がすべての分野を引き受ける必要があるのです。
出典:「点字と朗読への招待 本間一夫・岩橋英行・田中農夫男 編」、pp.200-213、1983年2月 初版発行、福村出版.