以下の文書は、「昭和60年4月25日」付けで「日本点字委員会会長 本間 一夫」氏から「国語審議会会長 有光次郎 殿」に宛てて提出された意見書の抜粋である。
昭和57年3月以降、3年間の審議を経て、このたび、「改定現代仮名遣い(案)」をまとめられましたことにつきまして敬意を表します。私ども日本点字委員会は、昭和57年10月に意見書を提出いたしましたが、その立場でこの「改定現代仮名遣い(案)」を検討させていただきました。
その結果、「仮名によって語を表記するとのきまり」という仮名遣いについての認識及び「改定現代仮名遣い(案)」の「性格」と「構成」につきましては、高く評価することが出来ました。また、「内容」の付記としては、エ列の長音と見られているものの表記と、いわゆる促音表記の基準を示されたことにつきましても、語の表音性と表意性の調和をはかられたという意味で評価することが出来ました。
しかしながら、実質的に最も重要な「内容」のうち、(1)同音の連呼を特例として認めたこと、(2)助詞の「は」と「へ」を慣習が定着したと断定したこと、及び(3)オ列長音について、原則と特例が倒錯していると思われること、の3点につきましては、表音性はもとよりのこと、語の表意性からも理解することは出来ません。また、一方で、2語の連濁に許容を認めるように変更しながら、他方で、助詞の「は」「へ」及びオ列長音については、従来認められていた許容を認めておられないことは、歴史主義者に迎合または偏向しすぎたものとして、バランスのとれた国語政策としては容認しがたいものがあります。
ただ、この段階に至りましては、今期の国語審議会として、大幅な改善をはかられることは立場上無理だと存じます。ところが、このまま決定されますと、私どもの点字仮名遣いの根拠が失われて、日本語を仮名によって表記している数万人の教育、職業、日常生活に支障をきたすことになります。そこで、せめて、助詞の「は」「へ」及びオ列長音の許容を従来通り存続していただくことを、その理由を付して要望いたします。
点字の仮名遣いでは、百年近くもの長い間、助詞の「は」と「へ」を音韻に基づいて「わ」と「え」と表記して参りました。「現代かなづかい」の制定以後は、助詞の「は」と「へ」の許容をその根拠として位置づけ、それが習慣として定着しています。にもかかわらず、今回の「改定現代仮名遣い(案)」で、助詞の「は」と「へ」の許容を省くこととした理由として、「一般社会におけるこれらの語の書き方の定着状況にかんがみ」と説明しておられます。この場合、「一般社会」というのは、どのようなものをさしておられるのでしょうか。もとより視覚障害者も、日本国民の一員として、我が国における一般社会を構成しています。統計では、30数万人、点字使用者はそのうち数万人しかいませんが、少なくとも、同じく一般社会を構成している国語学者や文芸作家よりも多数にのぼっています。もしこれらの視覚障害者が、「一般社会」を構成する人々の中に含まれないとすれば、人権問題となりかねません。
また、点字は、万葉仮名、片仮名、平仮名とともに、日本語の音節を表す点字仮名なのです。さらに、この点字仮名を用いて、法令、文部省の著作や検定の教科書、衆参両院の選挙公報、都道府県の広報、新聞・雑誌などが作成されたり、参政権の内容としての選挙投票やリコール請求の署名などに公認されるという形で、「一般の社会生活における現代の国語を書き表すため」に、点字仮名遣いは位置づけられています。その点字仮名遣いのよりどころの一つが、助詞の「は」と「へ」の許容なのです。
視覚障害者は、決して特殊な社会を形成してはいません。今、目が見える人でも、いつ何どき事故や病気あるいは老齢のために、視覚障害者になるかもしれません。また、点字仮名は、決して特殊な文字ではありません。「改定現代仮名遣い(案)」の性格の(2)に示された一般の仮名遣いに該当するもので、専門的分野や個人的用途に用いられているものでもありません。さらに、点字仮名は、平仮名と片仮名の両面に該当しますので、和語や漢語では、もっぱら平仮名と対応することになります。このように考えて参りますと、数万人の点字使用者がよりどころとしている助詞の「は」と「へ」の許容を省く理由が理解出来ないのです。もし点字は別に取扱えばよいと考えられるのでしたら、その理由と対策を明確に示していただきたいのです。その上で、「改定現代仮名遣い」の中にそのことを明記していただきたいのです。
ところで、視覚障害者は、点字の仮名遣いの問題だけではなく、漢字仮名交じり文における助詞の「は」と「へ」の悪影響をうけています。コンピュータを内蔵した文字・音声変換装置で、漢字仮名交じり文を自動的に読みとって合成音声で読みあげる場合、数万語の辞書を記憶させ、文章解析のプログラムを工夫して、助詞の「は」か「へ」であることを機械が認定出来れば、それを「ワ」とか「エ」と読みあげることが出来るようになります。しかしながら、助詞の後ろに仮名文字の単語が続く場合、たとえば「あれは いくか」が「あれ はいくか」になったり、「だんのうらへ いけ」が「だんのうら へいけ」と読みあげたりします。これは、文字・音声変換装置が悪いのか、仮名遣いが悪いのかは問わないことにします。しかしながら、辞書により助詞の認定が出来る場合が多いため、この程度ですんでいるのです。
小学校低学年の場合は、助詞の意識は少ないため、これらは学習上の困難をきたしています。その上、「ワ」を「は」と書く、「エ」を「へ」と書くと納得も出来ないまま覚えさせるのは、「白いカラスもカラスだから黒いんだ」と言いくるめるのに似ていて、教育者の良心を痛めます。さらに、「では」「こんばんは」などの複合語につきましては、大人でも理解がむずかしいため、家族やボランティアに代書してもらう時、正しく書けないことがきわめて多いのです。
このような問題は、本則の方を音韻に基づいた原則で表記するしかありませんが、今回はせめて許容を従来通り存続していただくことを要望いたします。
今回、本文第1の5の長音(5)にオ列の長音として明記されましたことは、これらの音を2モーラ1音節の長音として認定されたものと理解することが出来ます。そこで、これらの1音節の長音の後半にあたる2モーラめをどう書き表すかが問題となります。
この後半の2モーラめは、前半の1モーラめの中に含まれている母音の時間的な継続でありますから、本来ならば、長音符で書き表すのが最善の策ということが出来ます。その意味から、点字仮名遣いでは漢語や和語についても、ウ列とオ列の場合に限り、長音符を用いています。もし長音符を用いると擬声語や外来語など片仮名表記との混同がおこるというのであれば、次善の策として、この部分を仮名を添えて表すことが出来ます。その場合、「おかあさん」、「おにいさん」、「くうき」、「おねえさん」などと同じように、前半の1モーラめと同じ母音を表す仮名を添えて、「おとおさん」というように、オ列長音には「お」を添えるのが順当だと思われます。
しかしながら、「改定現代仮名遣い(案)」には、「オ列の仮名に『ウ』を添える。」となっています。もし「ウ」が長音部分を表す一般的な方法であるとすれば、「おかうさん」、「おにうさん」、「おねうさん」と書くことが妥当でしょう。それが妥当でないというのでしたら、この「う」は何なのでしょうか。
この「う」は歴史的仮名遣いの「う」または「ふ」からきて、「現代かなづかい」で踏襲した習慣によるものと考えざるを得ません。もしそうであるとすれば、「第1.語を書き表すのに、現代語の音韻に従って、次の仮名を用いる。」で始まる原則事項の中に位置づけることは、誤っているのではないでしょうか。そこで、第2の特例の6に揚げてある語を第1の5の長音(5)にもってきて、原則と特例の内容を総入れ替えする方がまだましなのではないでしょうか。ただ、この場合、特例の語数が多くなると思われますので、オ列の長音はすべて「お」を添えて書き表すことにすれば、合理的で教育上も問題がなく、「おとおさん」と発音しても「おとうさん」と書くのだと小学生をいいくるめなくともよくなります。
ただ、この段階に至っては、大幅な修正、改善もむずかしいでしょうから、第1の5の長音(5)に「お」を添えることを許容とする旨を明記して、将来への禍根を残さないようにしていただきたいのです。
出典:「日本の点字」第13号、pp.30-33、、日本点字委員会1986年1月.