以下の文書は、「昭和57年10月2日」付けで「日本点字委員会会長 本間 一夫」氏から「国語審議会会長 有光次郎 殿」に宛てて提出された意見書の抜粋である。
わが国には視覚障害者が30数万人いると推定されています。しかしながら、高齢期の失明者や弱視者を含んでいるので、そのすべてが日常、点字を使用しているわけではありません。最も確かなものとして、全国の点字図書館の登録読者約4万2千人と、盲学生8千人を合わせて、およそ5万人が点字常用者であるということができます。この数は、日本国民の0.05パーセントに過ぎませんが、日常生活や学習に際して、日本語の音節を表すかな文字だけを、読み書きの手段として常用している人々の中では、最も多数派であるということができます。その上、かな文字の一種であるこの点字と日常かかわっている人々は、点字使用者だけではありません。全国の盲学校や点字図書館など、視覚障害者の教育や福祉に携わる約7,500人の関係職員及び約1万2千人の点訳奉仕者が、日常、点字の読み書きを行っております。更に、最近では、毎年約2万5千冊の点字入門書などが、日本国民の目に触れられています。その意味で、かなづかいにかかわる国語政策の変更は、点字使用者や点字関係者の利害に直接かかわるばかりではなく、その周辺を取り巻く多くの人々の関心事でもあります。
日本点字委員会は、日本の点字表記に関する唯一の決定機関として、盲学校、点字図書館、点字出版所などの代表委員と学識経験者委員を構成メンバーとして、昭和41年に発足し、日本の点字の統一と体系化に努めてまいりました。この間、「日本点字表記法(現代語篇)」(昭和46年)と、「改訂日本点字表記法」(昭和55年)が発行され、教科書を始め、各種の点字書籍の出版や点訳などが、これに基づいて行われています。その意味で、日本点字委員会は、日本の点字表記に関係する事柄につきまして、点字使用者や点字関係者を代表して発言する立場に立っております。
日本点字委員会では、点字表記の決定に当たりまして、点字使用者が「読みよく、書きよく、分かりよい」表記法を目指しますとともに、一般の国語表記との対応関係を明確にしてまいりました。中でも、大正年間から「現代かなづかい」にほぼ近い表音式かなづかいを採ってまいりましたかなづかいの分野では、伝統的な表音式かなづかいの蓄積を踏まえる一方で、戦後の国語改革の一環として、国語審議会が示された、「現代かなづかい」(昭和21年)、「外来語の表記について」(昭和29年)、「正書法について」(昭和31年)との対応関係を明らかにしてまいりました。現在では、外来語の表記につきましては、一般のカタカナの表記と一致しておりますし、和語や漢語のかなづかいにつきましても、連濁や連呼あるいは促音化の基準などに多くの問題を抱えておりますけれども、同一の基準を立てております。ただ、どうしても同一にすることができない点が二つ残っています。その第1は、助詞の「は」と「へ」で、点字かなづかいでは発音通り「わ」と「え」を用いております。これは「現代かなづかい」の許容を採っているということもできます。第2の相違点は、漢語や和語のウ列とオ列の長音で、「現代かなづかい」で「う」を添えるところを長音符を用いて書き表しています。これらは、漢字かな交じり文では漢字で表されることが多い部分ですが、かなだけを用いている点字の表記では、容認することができない問題なのです。
これらの二つの相違点を除きまして、多少の問題を抱えながらも、多くの点で、「現代かなづかい」と「点字かなづかい」とを共通にしておりますのには、それなりの理由があります。まず第1に、一般の漢字かな交じり文から点字がなに「点訳」してもらったり、逆に点字がなから漢字かな交じり文に「代書」してもらったり、あるいは点字使用者がカナタイプライターを使用するときなどに支障が少ないということが言えます。確かにこのことによって、視覚障害者の社会参加を促し、読書の範囲を拡大することにも役立ちます。しかしながら、これらの理由は点字使用者にとって根本的な理由ということはできません。点字がなを用いて日本語の読み書きをしている点字使用者にとっては、日本語の本質に基づく点字表記法が必要であります。また、この日本語の本質に基づく点字表記法は、国語表記の一つの分野として位置づけていくことが必要なのです。その意味で、かなづかいの問題や分かち書きの問題、あるいは句読法の問題などは、日本国民の国語表記の問題として、ともに解決していくことが必要となっているからなのです。
今回、国語審議会が、現代国語をかなで書き表すための基準であります「現代かなづかい」を見直されるに当たりまして、日本国民の中でかなづかいと最も深い利害関係を持っております点字使用者と点字関係者が抱えております問題点を、ともに解決していただきたいのです。そのため、原則事項2項目、連濁・連呼に関すること3項目、及び助詞の「は」と「へ」、オ列長音、促音化などの基準各1項目の計8項目につきまして、私どもの意見を次のとおりまとめましたので、御検討いただくことを要望いたします。
国語改革は一挙に行うことが難しい分野ですから、昭和21年の「現代かなづかい」の制定という画期的な出来事でありましても、それまで用いられておりました歴史的かなづかいの影響から完全に脱しきれなかったことを十分に理解し、歴史的事実として受け止めることができます。しかしながら、現在では、制定以来既に30数年を経ておりますので、「現代かなづかい」は各世代にほぼ浸透し、現代国語を歴史的かなづかいと結びつけて考えることができる人は、ごくまれな存在となっております。その意味で、「現代かなづかい」の理解や習得に際しまして困難を生ずる点の多くが、歴史的かなづかいとかかわりを持った部分であるという事実を納得しないわけにはいきません。
これらの問題点は、一般の小学校国語教育の中で完全に克服できるとは考えられません。小学校で「現代かなづかい」を習得しましても、日ごろ漢字かな交じり文を常用しておりますと、漢字で書かれている部分のかなづかいを意識することはあまりありません。そこで、カナタイプライターを使用したり、新たに点字を学ぶなど、かな文字だけで書かなければならない場面にぶつかりますと、「現代かなづかい」を十分に理解し、習得していなかったという事態を意識することになるのです。盲学校や点字図書館などの職員、あるいは点訳奉仕者などの点字関係者は、日ごろ漢字かな交じり文を常用しておりますとともに、点字を用いて業務や奉仕をしております。これらの人々は「現代かなづかい」をも習得し、常用しているはずなのに、点字かなづかいを習得する際に、改めて「現代かなづかい」を学び直すことに多くの時間と努力を必要としています。中には、「点字を習って国語の勉強になった」という感想を漏らす人さえ少なくはないのです。更に、点字を用いた日常の業務や奉仕に際しましても、絶えず国語辞典を引いてかなづかいを確かめることが必要となっているのです。中でもオ列長音や連濁・連呼の理解や習得、あるいは日常の運用に際しまして、つまずくところが多いのです。
点字使用者の中でも中途失明者の場合は、少し前まで漢字かな交じり文で読み書きし、「現代かなづかい」も習得していたはずなのに、点字かなづかいを学ぶに当たりまして、「この部分は『現代かなづかい』と同じ」と言われて改めて驚き、「もっと例外の少ない、分かりよい規則はないのですか」と言う始末です。中途失明者の点字習得の場合は、手指で触読することに慣れるという大きな課題がありますから、点字のかなづかいにつきましては、今までのかなづかいの知識を前提として、現代国語の本質に基づいた例外の少ないものにして、負担をできるだけ軽減することが必要なのです。そのためには、点字のかなづかいと一般のかなづかいを共通なものに近づけるとともに、一般のかなづかいが現代国語の本質に基づいた、例外の少ないすっきりとしたものになることが望まれるのです。
乳幼児期からの失明者の場合は、盲学校小学部の国語教育の中で点字のかなづかいを習得しますし、必要に応じて「現代かなづかい」に基づいてカナタイプライターで表現できるように、特別の教育も行っています。その場合、「オ」と発音するオ列の長音をなぜ二通りに書き分けなければならないのかに戸惑います。また、助詞の「は」と「へ」の使い方の理解は、品詞論的な文法の理解とともに悩まされています。更に、連濁や連呼に関する「ぢ」「づ」「ぢゃ」「ぢゅ」「ぢょ」の使い分けは、かなり困難です。その上、点字の国語辞典が少なく、あっても膨大な分量となるため、手軽に使えませんので、いちいち確かめることもできず、やむを得ず、書かれたものを読んで慣れるほかはないという状態です。
これらの悩みは、一般の国民の悩みと一致しているわけですが、漢字に隠された部分のかなづかいと常に取り組むという意味で、点字使用者の悩みは切実です。そして、その大きな理由の一つが、「現代かなづかい」における歴史的かなづかいの残滓にあるのです。点字のかなづかいでは、漢語に歴史的かなづかいを用いなくなってから既に80年を経過しております。更に、現代語の和語に歴史的かなづかいを用いなくなってからでも60年を経ております。表音的なかなづかいの下で、かな文字だけを用いてきた私どもの経験を踏まえて、私どもの日ごろの悩みを解消していただきたいという立場から、今回の改訂に当たりまして、歴史的かなづかいの残滓を一掃し、現代国語の音節と語意識に基づいて規則を立て、分かりやすい説明をしていただきたいのです。その意味で、成文化される際にも、前回のように歴史的かなづかいとの変更点を主とするのではなく、前回の備考欄を骨子としたような形式で、現代国語の本質を描き出していただきたいのです。
現代国語の音節と語意識に基づいてかなづかいの規則を定める場合、まず表音性に着目していただきたいのです。特に、「オ」と発音するオ列の長音を表すのに最もふさわしいかなを当てるとか、「ワ」や「エ」と発音する助詞に最もふさわしいかなを当てることが必要なのです。更に、同音の連呼や固有名詞の連濁につきましても、その音節に最もふさわしいかなを当てることが望まれるのです。
その上で、表音性だけではなく、表意性にも配慮していただきたいのです。「現代かなづかい」は、「現代語をかなで書きあらわす場合の準則」として示されたもので、漢字の「ルビ」ではないはずです。たとえ漢字かな交じり文の中にある漢語でありましても、かな文字だけで書き表す場合には、かな文字だけで即座に意味がくみ取れるようなかなづかいにしていただきたいのです。漢字を前提として、その漢字の発音を表すための「ルビ」の役割をかなづかいに持たせることには疑問があります。特に、促音化が進行し過ぎて、元の意味が不明確になると困りますので、その歯止めの基準を明確にしていただきたいのです。
一般には、表意性は漢字だけが持ち、かな文字には表意性がないと思われています。しかしながら、漢語における漢字の表音性とともに、かな文字でつづられた語の表意性は、国語教育におきましても、日常の読み書きにおきましても極めて重要なのです。一つのかな文字だけでは表意性は少ないことは事実ですが、意味を担っている音節群や単語を表すかな文字群の表意性は、かなづかいの上で重視される必要があります。その意味で、2語の連濁の場合は、連濁を生ずる後半の部分の表意性を重視するという立場から、「ぢ」「づ」「ぢゃ」「ぢゅ」「ぢょ」の使用を認めることができます。しかしながら、固有名詞の連濁には相当問題があります。これらの問題は表意性と表音性がぶつかり合う問題ですので、どのように使い分けるのか、その基準を明確にしてほしいのです。今回の改訂に当たりましては、表音性と表意性のそれぞれの特長を生かすとともに、それらの調和をも図っていただきたいのです。
2語が連合して後半の語頭に濁音が生じた場合は、「ぢ」「づ」「ぢゃ」「ぢゅ」「ぢょ」を用いてもよいというのは、一つの音には一つのかなという原則の例外ですし、歴史的かなづかいの習慣を踏襲したという点で、歴史的かなづかいの影響を受けているということは否定できません。本来でしたら、この例外をなくして表音的なかなづかいの原則を貫いていただいた方が、点字使用者は迷うことなく書くことができるのです。しかしながら、その他の音の2語の連合の法則と同じものとし、2語の連合によって後半の語頭の清音のかなが変化した結果、元の語意識を乱し、意味の理解を妨げてしまうことを防ぐという表意性重視の立場に立つならば、たとえ表音性の例外でありましても、現代語のかなづかいとして、理にかなったものとして認めることができます。
ただ問題は、2語の連濁であるかないかの判断の基準を明確にしてほしいという点なのです。「正書法について」で示されている分析的意識があるかないかという判断の基準はよいのですが、後半の連濁となる部分の語としての自立性の範囲を明確にしてほしいのです。特に漢字1字の語の場合、造語要素や接辞などとの境目を明確に規定してほしいのです。また、語源をさかのぼり過ぎたり、漢字の字面に引かれることのないように、現代国語として、かな文字だけで理解できるような判断の基準を明確に打ち出していただきたいのです。
<点字において間違えやすい例>
点字使用者の場合、「ミヂカ」(身近)、「コヂンマリ」(こぢんまり)など、連濁と認められている語を表音的に書き表す傾向が極めて多く見られる。
「イナズマ」(稲妻)や「サカズキ」(杯)などは語源に引かれやすいが、「キズナ」(きずな)は最近ひらがなで書かれているせいか、点訳に際しても間違いが少なくなっている。
「アキチ」(空き地)、「ダイチ」(大地)、「チヒョウ」(地表)などに引かれて、「スナジ」(砂地)、「ダイジシン」(大地震)、「オオジヌシ」(大地主)などが乱れる。
「チカヅク」(近付く)と「ウナズク」(うなずく)や「ツマズク」(つまずく)の区別がつきにくい。
「ムツカシイ」(難しい)に引かれて「ムズカシイ」(難しい)が乱れる。
「ムトンチャク」(むとんちゃく)、「アイチャク」(愛着)、「シュウチャク」(執着)に引かれて、「ムトンジャク」(むとんじゃく)、「アイジャク」(愛着)、「シュウジャク」(執着)が乱れる。
同じ漢字でも「ジチ」(自治)や「トウチ」(統治)と「セイジ」(政治)や「メイジ」(明治)と、清音と濁音に分かれるものがあるが、これらは混乱を引き起こしやすい。特に古語で「ヂリョウ」(治療)といった「チリョウ」(治療)が、「スイジリョウホウ」(水冶療法)となる場合には間違えやすい。
「レンチュウ」(連中)、「シンチュウ」(心中)、「ネンチュウ ギョウジ」(年中行事)などに引かれて、「レンジュウ」(連中)、「シンジュウ」(心中)、「ネンジュウ ギョウジ」(年中行事)などが乱れる。
「コウジチュウ」(工事中)、「ジュギョウチュウ」(授業中)などに引かれて、「セカイジュウ」(世界中)、「イチニチジュウ」(一日中)などが乱れる。
なお、「正書法について」では、現代国語では「ぢゅう」が使われることはないと書かれてあるが、岐阜県の川に囲まれた「ワヂュウ」(輪中)では、輪の中という分析的意識があるのではないかと思われる。
人名や地名の連濁につきましては、表音性と表意性の原則がぶつかり合うところですので、困難とは思われますが、何らかの基準を定めていただきたいのです。一般的な傾向として、当事者自身は表意性を強く意識しますが、直接関係の少ない人々は、表意性よりも表音性に重きを置きがちです。また、語源を重視するとか、歴史上の人物や地名の場合とかは、表意性に傾きやすい傾向があります。分析的意識といいましても個人差が大きく、解釈が分かれがちです。明確な基準とまではいかなくとも、大きな方向性を示すとか、迷う場合には表音性を重視するなどの、何らかの判断基準を定めていただきたいのです。著作権台帳や地名辞典などを調べてみましても、さまざまなかなづかいがしてありまして、点訳に際して一つ一つ調べたり、問い合わせたりしなければならない現状を少しでも改善していただきたいのです。
<点字において間違えやすい例>
「チズコ」(千鶴子)と「チヅル」(千鶴)と書き分けられやすい。
「小千谷」が「オジヤ」と「オヂヤ」に分かれやすい。
「ヌマヅ」(沼津)や「アイヅ」(会津)などは、関係省庁の話し合いで決められてはいるが、乱れている。
一般の辞書では「アズチ モモヤマ」(安土桃山)、「テンジ テンノウ」(天智天皇)となりやすく、歴史事典などでは、「アヅチ モモヤマ」(安土桃山)、「テンヂ テンノウ」(天智天皇)となりやすいが、実際に書き表すときの判断が難しい。
同音の連呼の「ぢ」「づ」は、2語の連濁とともに、一つの音は一つのかなで表すという原則に対する例外です。2語の連濁の場合と同じように、「ヒビク」(響く)や「タダシイ」(正しい)など、「ぢ」「づ」以外の音の同音の連呼の法則を持ち込んだものと言うこともできます。しかしながら、同音の連呼の場合は、2語の連濁の場合とは異なりまして、表意性とは全く関係がありません。また、「チヂム」(縮む)、「チヂミ」(縮み)、「チヂマル」(縮まる)、「チヂレ」(縮れ)、「ツヅク」(続く)、「ツヅキ」(続き)、「ツヅル」(つづる)、「ツヅリ」(つづり)、「ツヅム」(つづむ)、「ツヅマヤカ」(つづまやか)、「ツヅミ」(鼓)、「ツヅラ」(つづら)、「ツヅレ」(つづれ)とその派生語程度で、数としてはそう多くはないのですが、これらはすべて歴史的かなづかいを踏襲したもので、「イチジルシイ」(著しい)との区別は、歴史的かなづかいを知らなければ理解できないものです。歴史的かなづかいでは、繰り返しの符号である踊り字で書き表してもいましたので、これらを例外として残しておきたいという事情が、「現代かなづかい」制定当時にはあったとしてもやむを得ません。
しかしながら、今回の改訂に当たりましては、表意性を伴わない単なる歴史的かなづかいの残滓は一掃して、表音性に基づく明確な基準を定めても何ら差し支えないことと思われます。むしろ、これらの例外を廃止することによって、これらに引かれて生じていた誤りも解消されるのではないでしょうか。
<点字において間違えやすい例>
点字使用者の場合、同音の連呼の「ぢ」「づ」を「ジ」「ズ」と書く傾向が見られる。特に、「ノビチヂミ」(伸び縮み)、「チヂレッケ」(縮れっ毛)、「テツヅキ」(手続き)、「ツヅリカタ」(つづり方)などの派生語の場合に、その傾向は一層多く見られる。
「スコシズツ」(少しずつ)、「ヒトツズツ」(一つずつ)が、前や後ろの音に引かれて誤りやすい。
「チジキ」(地磁気)、「イチジク」(いちじく)、「イチジルシイ」(著しい)、「ケンチジ」(県知事)などが、同音の連呼に引かれて誤りやすい。
助詞の「は」「へ」「を」のかなづかいは、歴史的かなづかいをそのまま踏襲したものですが、そのうち「を」につきましては音節との隔たりがそれほど問題にはなりません。しかしながら、「ワ」や「エ」と発音するものを「は」や「へ」と書き表すのは、表音性の原則から大きく逸脱しております。また、これらの助詞は1文字だけで表すため、表意性の原則からも説明することはできません。現代国語として理にかなった説明ができないまま、慣習に妥協する必要があることも歴史的事実として理解することができます。ただ、過ちを2度繰り返す必要はないように思われます。
助詞の「は」と「へ」を積極的に肯定する意見として、語法上助詞の意識が明確になるということが言われています。しかしながら、語法上の問題をかなづかいだけに担わせるのには無理があります。むしろ分かち書きや句読法の基準を明確にしていただく方が、語法上の問題を解決するには有効です。語法上の問題をかなづかいに、しかも助詞の「は」「へ」「を」だけに担わせるのは、国語政策としていかがなものでしょうか。
点字使用者の長年の経験では、助詞の「は」「へ」を発音通り「わ」「え」と書き表しても何の支障も起こっていません。もし支障があるとすれば、漢字かな交じり文との相違点のため、点字使用者自身の子女の教育や近隣の人々との文書のやり取りに際して、見られるに過ぎません。中途失明者や点訳奉仕者が点字を学び始める初期には、ほんの一時期戸惑いがあります。しかしながら、これはほんのわずかな期間で、その後は単独の助詞だけではなく、「こんにちは」、「こんばんは」、「それでは」、「では」、「または」、「あるいは」、「もしくは」、「ついては」などの複合語の場合でも、誤りを生じることはほとんどなくなります。これらの複合語につきましては、多くの国民が助詞であるのか、あるいは、元は助詞であったのかと悩んでいるのに対して、点字使用者や点字関係者の場合は、全く悩む必要がありません。もっとも、悩むことによって助詞の意識を高めることができるというのであれば話は別です。このような私どもの経験から考えますと、今回の改訂に当たりまして、助詞の「は」や「へ」を表音的に書き表すことにしたとしましても、ほとんど混乱なく実施されることと思われます。その意味で、私どもが実験台になったと考えていただいても差し支えありません。
審議の結果、助詞の「わ」と「え」は「は」と「へ」と書くことを本則とするという従来の原則が継続される場合には、現代国語として理にかなった説明をしていただきたいのです。ただ、助詞の「は」「へ」は漢字かな交じり文でもかな文字で書かれる部分ですので、慣習上からの抵抗が多いことは十分に理解できます。その場合は、許容事項として「わ」「え」と書いてもよいと明記していただきたいのです。従来のように、討議経過の中にだけ書かれて、規則の中では「本則」という言葉の陰に許容を表すだけでは十分とは言えないからです。
なお、助詞の「を」につきましては、表音性の裏付けもできますので従来通りで問題はありません。また、助詞ではありませんが、同じ例外に属する動詞の「言う」につきましては、活用に際して語幹が動かないという語法上の意識から「いう」と定めたという説明は十分理解できますので、変更の必要はないと思います。
<点字において間違えやすい例>
点字では「ワ」「エ」と書き表しているので誤りの例を挙げることはできない。ただ、点訳奉仕者や朗読奉仕者の中に、「トウギヲ エテ」(討議を経て)と表現する人が時折見られるが、これは「ヘ」を「エ」と読む習慣から来ている誤りではないかと思われる。
本来ですと漢語や和語の長音も、外来語と同じようにすべて長音符で書き表すという原則を立てていただければ、まことに有り難いのです。長音は和語にも見られますが、漢語に多く見られますし、漢字かな交じり文の中では漢字に隠されておりますから、それらを用いる人々に与える影響は比較的少なく、かな文字だけを使用しております者にとりましては、誤りを少なくするという利便がもたらされます。長音であるかないかの判定にやや問題が残りますが、アクセントで区別することができますからおおむね支障はありません。しかしながら、今回の改訂で変更が難しい場合には、せめて許容事項として明記していただきたいのです。ここでは、全面的な変更が困難であることを予想して、オ列長音だけに絞って意見を述べさせていただきます。
「現代かなづかい」では、オ列長音のうち歴史的かなづかいで「う」や「ふ」で書かれておりましたものには「う」を添えて表し、「ほ」や「を」と書かれておりましたものには「お」を添えることになっております。これは全く歴史的かなづかいの残滓にほかなりません。「お」は母音「オ」の繰り返しではっきり「オ」と発音されるものであるのに対して、「う」は「お」の長音であるという現代国語としての説明もなされてはいますが、現在では両者とも長音として受け止めている人の方が多いようです。なぜ書き分けなければならないのか、理解に苦しむ人の方が多いのです。また「お」を添える語が「う」を添える語の例外としても、なぜこれだけを例外にしたのかにつきまして、歴史的かなづかいからの由来を抜きにして説明することはまず不可能です。
一般には例外の「お」の方が問題にされていますが、むしろ「オ」と発音されるオ列の長音を、なぜ「う」と書かなければならないのかにつきまして理解する方が一層困難です。琉球方言の中にはウ列とオ列を区別しないということはありますが、日本国民の大部分はウ列とオ列の音をはっきり区別しております。このことは長音につきましても同じで、ウ列の長音とオ列の長音ははっきり区別しております。それなのに、なぜ「オ」と発音されているものを「う」と書き表さなければならないのかにつきまして、歴史的かなづかいを媒介にしないで説明することはできないのです。もし「う」が長音符の代わりであると言うのであれば、なぜア列、イ列、エ列の長音にも「う」を添えないのかという疑問がわいてきます。オ列の長音に「う」を添えていることは、発音とは異なるかなを添えているという意味で、これと同じことをやっていることになるのではないでしょうか。
今回の改訂に当たりまして、ア列、イ列、ウ列、エ列の長音にそれぞれ「あ」「い」「う」「え」を添えておりますように、オ列の長音には「お」を添えるようにしていただきたいのです。そうすることによって、「お」と「う」の書き分けの混乱も完全に解消されます。この場合、オ列というのは「お こ そ と の ほ も よ ろ ご ぞ ど ぼ ぽ」だけではなく、「きょ しょ ちょ にょ ひょ みょ りょ ぎょ じょ ぢょ びょ ぴょ」の後にくるすべての長音がそれに属しています。「現代かなづかい」の33項目の規則のうち、24項目、言い換えれば全体の3分の2以上の項目が、オ列の長音は「お」と書くという一つの規則の中に吸収されてしまうのです。この規定は表音性に一致するばかりではなく、表意性にとっても問題はありません。大学の「コウシ」(講師)と小さい牛の「コウシ」(小牛)との区別もついてきます。
「オトウト」(弟)や「イモウト」(妹)のように一部の和語につきましては、語源から言って「う」と書いてもおかしくないものもあります。しかしながら、それらにつきましても現在では「オ」と発音されておりますし、オ列長音の和語はほんの少ししかなく、圧倒的多数は漢語なのです。漢語を構成する漢字で長音が含まれるものは2音節漢字です。これは本来1音節であった中国の音に「イ ウ オ キ ク チ ツ ン」など、音便になりやすいなじみの音を日本で付け加えたものですから、2音節目には表音的な表記が最もふさわしいと言うことができます。更に、漢語はほとんど漢字で書き表されておりますから、一般の日本人の意識の上で、かな文字との結びつきは助詞の「は」や「へ」ほど強くはありません。むしろ、発音に対応したかなづかいの方が、すぐに定着するものと思われます。日ごろ漢字の陰に隠されているため、「お」を「う」と書く矛盾に気付いていない人が多いのが現状ですから、かえってこれを変更しても抵抗が少ないと思われます。点字使用者や点字関係者は、「お」と「う」の書き分けに常に悩まされておりますし、なぜ「お」を「う」と書くのか理解に苦しんでおりますので、この際、理にかなったかなづかいに変更していただきたいのです。
ただ、動詞の終止形や連体形の語尾の「う」と助動詞の「う」、「よう」につきましては、語法上の関係からウ列の場合と併せて「う」と書くことを例外としておくことが必要ではないでしょうか。この例外は「お」と「う」の書き分けとは異なって、十分に理解されるということは、点字使用者の経験から予想することができます。
<点字のおいて間違いやすい例>
点字においては「う」と書くところを長音符を用いているため、発音とかなづかいとの矛盾を起こしてはいないので、「う」を用いることの問題点は直接上がってはいない。しかしながら、もし「現代かなづかい」と同じように「う」と書くことにしたら、大混乱を引き起こすものと思われる。
「お」と「う」の書き分けについてはその理由や基準が分からず、例外の語を覚えるようにしてはいるが、「オオイ」(多い)、「オオキイ」(大きい)、「トオイ」(遠い)、「トオル」(通る)など派生語が多いものについては、書き分けができず長音符で書いてしまう人が多いので、現在では許容として「お」を長音符で表記することを認めている。
点訳奉仕者の中には、「オオタ」(太田)、「オオヅツ」(巨砲)、「ミトオス」(見透す)など、訓が認められていない漢字を当てている「大きい」や「通る」に由来する派生語の長音のかなづかいを間違える場合がある。
派生語、ことに地名や人名などでは、漢字を見ることのできない点字使用者にとっては、「オオサカフ」(大阪府)と「オウサカヤマ」(逢坂山)、あるいは「トオヤマサン」(遠山さん)と「トウヤマサン」(当山さん)の書き分けが難しい。
「現代かなづかい」では、促音につきまして「つ」を右下に小さく添えるということだけが書かれていて、どういう場合に促音とみなして書き表すのかにつきましては何らかの判断基準をも示してはありません。そのため、促音化の判断には個人差が大きく、国語辞典を引いて見ましても、実に様々になっております。点字かなづかいでは特別に促音化の基準を立ててはおりませんので、点訳奉仕者や点字関係の職員は、問題が起こるたびに国語辞典を引いておりますが、根拠とする国語辞典によって基準が異なるため、点字使用者に混乱を引き起こしております。漢字かな交じり文では漢字の陰に隠れている場合が多いので、国語辞典などの見出しでも、漢字を前提とした「ルビ」とみなしているのではないかと思われるものも多く見られます。しかしながら、かな文字だけで読み書きをしている点字使用者にとりましては、かな文字だけで語の意味が理解できるように、表意性を配慮したかなづかいが必要なのです。
点字使用者の場合は、自分で書くときはどちらかといえば促音化し過ぎる傾向があります。これは日ごろ現代国語の音節と点字との関係を比較的密接に受け止めている習慣からくるものと思われます。しかしながら、同じ人でも他人が書いた文章を読む場合には、できるだけ促音化されていないかなづかいが、表意性を保っているために読みやすいのです。特に、なじみの少ない語になりますと、この傾向が一層増してきます。この自己矛盾を解決するためには、どちらかといえば促音化し過ぎていないかなづかいの方を基準としておくのが得策のように思われます。
今回の改訂に当たりまして、表意性を失わせるほど促音化が行き過ぎないように、歯止めとなる判断の基準を示していただきたいのです。たとえ明確な判断の基準を示すことができない場合でも、迷うときは促音を用いないなどと、大きな方向だけでも示していただきたいのです。
<点字において迷う例>
「サンカクケイ」(三角形)、「オンガクカ」(音楽家)、「テツガクカ」(哲学科)などは、促音化しない方がよさそうである。
「テキキ」(敵機)と「テツキ」(鉄器)は、促音で書くと2語の違いが分からなくなる。
「テキカク」(的確)、「テツサク」(鉄柵)、「サツスウ」(冊数)などは促音で書くと意味が分かりにくくなるが、「チョッケイ」(直径)、「ネップウ」(熱風)などは促音で書いても問題がない。
一つの基準として、母音だけが脱落していわゆる無声化現象を起こしている場合には促音化しないが、子音と母音がともに脱落している場合には、促音化してもよいということも考えられる。しかしながら、この基準でいろいろな事例に当たっていくと、必ずしもすべてに通用する判断の基準とも言いにくい。
出典:「日点委広報 日本の点字」第10号、pp.23-38、日本点字委員会、1982年12月.