経済問題メーリングリスト

ステレオタイプの功罪

問題設定

司会からの最初の問題提起は次のようなものだった。

参考文献として 青木保「異文化理解」岩波新書、2001年 をつかいます。(必ずしも読む必要はありません。)

ある文化について一つのイメージができると、その文化に属する個人間 にある多様性に目を向けず、容易なラベル貼りをする傾向があります。 日本人はエコノミック・アニマルであるとか、イスラム教徒は暴力的で あるといったラベルです。

このようなステレオタイプ的理解は極端な理解の仕方なので、人間を人間として 見ようという視点はありません。「相手が何々教徒、何民族、何人と聞いただけ でまともに相手を見、現実を捉えようとする耳目は完全にふさがれてしまう。」 と上記の本の著者は指摘します。

では、なぜ人々はステレオタイプを作るのでしょうか。また、ステレオタイプを 作ることは「罪」でしかないのでしょうか。「功」はないのでしょうか。 ステレオタイプ的なものの見方を批判するだけでなく、どのような場合には ステレオタイプが有効になるのかを考えてみたいと思います。

アメリカで同時テロが起きた直後だったので、イスラム教(徒)に対する関心が強まっていた時期の議論だった。あまり省みられることがなかった人たちに関心が強まることはいい傾向だったが、ともすると安易にステレオタイプ的なイメージをもつことにもつながりかねないような風潮があった。そこで、このメーリングリストでは同時テロや、イスラム教徒理解を直接おこなうのではなく、ステレオタイプとは何か、どのような長所・短所をもつものなのかを整理することにした。

議論の中で以下の ものすべての論点がステレオタイプの問題点としてつかわれていることがわかった。

  1. 社会の平均像をとらえることはできない。

    1. 情報が限られている
      • 過去の情報しか利用できない。
      • 社会の構成員すべてに関する情報が利用できるわけではない。
    2. 感情的判断をしてしまう

  2. 平均像は現実のつきあいには安易に応用できない

    1. 現実には平均と同じ行動をとる人ばかりとは限らない
    2. 平均像通りの社会に、平均像で政策を作ると、その機械的 適用に対する反発から個人行動が変わってしまう。
    3. 平均像は社会全体の特徴を説明するものであって、それを 個人行動の説明につかおうとすることがおかしい。
1の論点は、ステレオタイプが社会全体の平均的な姿をとらえていないという考えである。 2の論点の場合は、ステレオタイプは社会全体の説明としては正しい理論であるけれども、その運用上は問題があることを指摘するものである。

現実世界では 「それはステレオタイプだ」という文言をつかうことで相手を黙らせる強力 な言葉になっていることもある。たとえば、メーリングリストでの 議論も、単純な割り切り方をしており、ステレオタイプを振り回しているだけのものにすぎないという反論もあった。しかし、 言葉で議論をするかぎり、必ず単純化はするものである。 現実のすべての要素を把握できるわけがない。まず単純な 枠内でわかることをあきらかにし、それから、もし可能であったら わかったこと(理論)を拡張しようというのが、学問が長い間 おこなってきたことである。「その議論はステレオタイプだ」という反論は、 あまりにもあたりまえすぎて理論的な議論に対する有効な反論には ならない。理論を否定し、体験を重視する人ですら、単純な議論をしているという 批判から自由ではありえない。こう考えて、議論の単純性についてはここでは割り切ることにした。

以下では、上に整理した順にステレオタイプをめぐる論点をまとめることにする。

なお、実際の議論の中ではアローの不可能性定理についてかなりの時間を割いたが、これについては別に独立して議論することにし、ここのまとめにはいれないことにした。

1.1 情報が限られている

ステレオタイプ=情報が限られているために社会の平均像をとらえる理論を作ることができない、という考えからの意見をまとめる。平均像という点は重要ではない。社会全体を総体的にとらえる視点とでもいうのだろうか。 次のような意見がでた。 このようにいくつかの説明要因を列挙することができる。いわばステレオタイプの「功」を考えたわけである。不完全な理論であり、実際を的確に把握したものではないにしても、ステレオタイプをもたなければならない状況があるということである。ステレオタイプ=不完全な思いこみなしに、個人は何も行動することができないことがとくに問題になった。高級店で客の靴をみて接客態度を変えるとか、人種をみて支払能力を判断するといったことが、現実にはおこなわれている。このような ラべリングをすることは経験則、もしくは学習の成果であり個人的には合理的な行動であるという指摘である。

では、ステレオタイプの問題としてどのようなことがあるのだろうか。ここでは、個人にとって合理的な行動であっても、それが社会全体の効用を最大化するのかという問題が指摘された。

統計的差別の問題がここで話題になった。確かに、差別(区別)をすることによって手間を省く個人の行動の背景には、差別(区別)されることによって不当に経済機会を逃す個人がいる。経済全体では差別(区別)行為がいいことかどうかは一概に判断できない。現実には、倫理・法などの他の理由も考慮しなければならない。

この問題を考えるときに、情報が完全なのか不完全なのかで話が変わるという指摘があった。情報が完全な世界で、ステレオタイプによる差別(区別)をすることは、あきらかに社会全体の利益を低下させるが、情報が不完全な世界では必ずしもそのような判断はできない。

ステレオタイプ=他人の判断を鵜呑みにする

この論点は、 百聞は一見に如かずという格言に集約される。 他人の意見を丸ごと信用するのではなく、自分で判断するべきなのに、 ステレオタイプ=他人の判断を鵜呑みにして物事を決めてしまう傾向が人間 にあることを問題にする。

この考えの大前提は「自分で判断するべき」というものだが、この点については 議論が掘り下げられることはなかった。

1.2 印象による判断

ステレオタイプ= 印象での判断は好き嫌いの感情に結びつきやすいので、価値観が多様な世界ではおこなうべきではないという意見があった。感情的判断で人を見ることは、対立を引き起こしやすいということである。理性的判断に比べて感情的判断の方が個人には楽に下せるが、好き嫌いによる線引きは対立の原因になるという意味で弊害をもつ。

この論点を考えると、情報の完全性が保証されるだけでは、ステレオタイプの弊害がなくならないことに気づく。 いままでの議論だと、情報が完全ならばステレオタイプを作る必要がないことになるが、実際には完全情報の世界があったとしても、情報を受容する人間の能力に限界があるのがふつうである。ここで考えた感情的判断の問題もあるし、そもそも情報分析能力がないという問題もある。 すべての情報を完全に分析する能力をもつ人間なんていないだろう から、どうしても情報の選り好みをすることになる。そのときに 自分の都合のよいように情報を選び取ってしまうものである。ステレオ タイプが好き嫌いの感情と結びつくのは仕方がないことといえる。

この論点からは、ステレオタイプは個人にとっては「功」の側面があるが、社会全体では「罪」の面ばかりがクローズアップされる。

2.1 個人の多様性

仮にステレオタイプが社会集団全体の特性を的確に表現するものであるとしても、そのステレオタイプを安易につかって個人と接することは避けたほうがよい。たとえば、次のようなステレオタイプが例に出された。
100人からなる社会で、そのうち20人は キムチがとても好き、50人は好きでも嫌いでもない、残りの 30人はとてもきらいだとします。その場合には、この社会の 人は全体としてはキムチが嫌いという判断をします。
この村からお客さんがくる場合に、キムチを用意するかどうかが問題になる。 社会全体から得られるステレオタイプに依拠するかぎり、キムチは出すべきではない。 しかし、個人が相手ならば、なにも社会全体の法則をあてはめるのではなく、その客がどのような好みをもっているのかを調べるべきである。集団全体については正しい命題であっても、それを個人に安易に適用するとき、ステレオタイプの弊害がでてくるのである。

すべての日本人男性はサムライである、すべての日本人女性はゲイシャである、すべてのアメリカ人男性はカウボーイである・・・というような思いこみを本気でもってしまったら異文化間コミュニケーションがうまくいかないことはあきらかであろう。仮に日本人男性全体を見渡したときに、サムライという言葉で表現できる何らかの性質を読み取ることができたとしても、個々の日本人男性は多様である。江戸時代に実際に生きていた武士も多様だったはずである。

2.2 理論に対する嫌悪

この論点はわかりにくいので、投稿されたメールをそのまま引用する。

珍さんの住んでいる村では住民の95パーセントがキムチ嫌いだと し、残り5パーセントはものすごくキムチ好きだったとします。 この事実は広く世間に知られているとしましょう。

珍さんの村に行ったことはないけれども、村人の大多数がキムチ嫌いだと いうことは知っている人が、あるときはじめて珍さんを食事に 接待することになりました。 珍さんが韓国料理を食べたいと言うので、韓国料理屋に行くことに したのですが、接待する側が食事にはキムチが出ないように細心の注意を払った ことは言うまでもありません。

珍さんは村の多数派と同じくキムチはとても嫌いだとしましょう。 接待した人がつかった理論は珍さんのケースではきわめて正しいもの だったわけです。

さて、このときに珍さんの反応としていくつかのものが考えられます。

  • 初めて会うのに、自分の好みをよくわかってくれていると感謝する
  • 自分の村に関するステレオタイプを機械的にあてはめているだけで、 自分個人を見てくれているわけではないと考えてしまう。自分はステレ オタイプだけでは理解できない他の要因があると力説したくなる。

私が問題にしたのは後者の例です。たしかに自分はキムチはきらいだから、 キムチを出さない配慮をしてくれたことはありがたいけれど、なんとなく 機械的な扱いを受けたような気分になりませんか?同じくキムチ嫌いと 言っても、他の村人とは理由はちがうんだとか、作り方によってはキムチ にも好きなものがあるとか、なにかしら他の村人とはちがうことがあると 言いたくなる気持ちはありませんか?結構世の中では自分が理論通りの 行動をしていると言われると反発を感じる人がいると思うんですが、どう 思います。

接待してくれた相手にどういう反応をするかはともかく、心の中で以上の ように考えることはないもんですかねえ。私だけなんですかねえ?

この考えに対して「理論通りの行動 をしていると思われることに反発を感じると言うよりは、大多数 の中の一人と勝手に判断されてしまうことへの反発なのかもしれ ません。」というコメントがあった。途上国援助がうまくいかない理由についても連想する コメントもあった。他国での経験から作られた理論やそれによる政策に対して、自分の国は他国とはちがうんだという意識が強いために反発してしまう傾向があるのかもしれないというものである。 突き詰めれば、理論の基づく合理的判断一般に対する批判かもしれないという指摘に対して、次のような反応もあった。
判断する側にとっては合理的でも、判断される側にとっては不愉快なことは たくさんあると思います。中途退職する女性は確かに多いですが、長期間に わたって同じ会社でがんばってみたいと思っている女性もたくさんいます。 女性という括りだけで判断するのが合理的であることは認めますが、許せ ません。

個人とつきあうときには、全体の中の一人として見る視点ではなく、個々の人間としてつきあうことが重要というのが、ここでの教訓である。

2.3 社会の説明としては有効

ステレオタイプの功とか罪に関する議論を冷ややかに見る意見もあった。 もともと、ステレオタイプというのは集団全体を見るものなのだから、それを個人行動の理解につなげること自体が無理という考えである。
私がステレオタイプという言葉に接するのは、日本文化論とか アメリカ文化論というような、どちらかというと個人の行動を 理解することよりは、社会全体の性質を知ること自体が目的に なっている場合のような気がします。もちろん、社会の特徴を 知ることによって、そこに属する特定の誰かのことを理解しようと いう目的もあるのかもしれません。しかし、それよりも自分とは 異なる文化の存在を知り、自分の行動を見つめ直すことがより 大きな目的になっているような気がします。

異なる社会全体のことを知ろうとすることは、それを実生活で 役立てようという目的なしにでもありうることだと思います。 社会全体の特徴を説明する場合には、そこに属する個人の考えや 行動とはまったく関係ない説明も可能だと思います。たとえば、 戦争を望む人は誰もいない国があったとして、その国の指導者が 戦争という手段をつかって問題解決をしなければならない状況も あるのではないでしょうか。

むかし経済学の教科書に合成の誤謬という言葉があったのを思い だします。個人の考えを足し合わせたものが社会の合意になる わけではないという話だったと思います。もしそうならば、社会 全体の動きを説明する理論は個人行動とは関係なく作れると思います。

ステレオタイプが問題になるのは、社会全体の動きを説明しよう とする理論を、個人行動の説明にあてはめようとするからではない でしょうか。

つまり、ステレオタイプとは、社会全体を理解するためにだけ有効なのだから、それ以外につかうべきではないということである。

じゃあ、どうしたらいいの?

大上段の議論はともかく、個人としてこれからステレオタイプ的行動についてどう見直していくかという問いがいっそう重要である。この問いに対してはふじひら氏の次の投稿が説得的な解答をあたえている。きわめて価値ある文章なので、主要部分をそのまま抜粋する。

この夏1ヶ月病気で入院して感じだことは、「健康は大切だ!」というだけ でなく、見知らぬ人達と大部屋でストレスなく生活を送るためには、自ら心を 開いて「対話」することが重要だ、ということでした。(^^;マジに

さて、以前このMLで紹介された『安心社会から信頼社会へ』の中で、「地 図型知性」と「ヘッドライト型知性」というのがありました。

自分の文化(ルール)とは違う異質なものが接近した時、「地図型知性」タ イプは反射的に警戒心を持ち、限られた情報のみに頼って距離を置こうとする。 一方「ヘッドライト型知性」タイプは好奇心を持って積極的に相手に近づき、 自ら新しい情報を得よう(=作ろう)とする、なんていう話がありました。

問題のあるステレオタイプに陥りやすいのは前者のタイプでしょう。警戒心 というネガティブな感情がまず先にあり、都合の良い情報だけをチョイスして 意味づけし、しかも相手に近づこうとしない。これでは偏見が改善されるきっ かけは掴めない。

当たり前なことだけど、警戒心と好奇心のどちらが良いかという話ではなく、 生きていく上でバランスが大事だということ。ちなみに「ヘッドライト型知性」 の持ち主は実験の結果から、ただのお人好しではなく、人を見抜く目にも長け ているということが明らかにされていましたが。

さて、情報化が進んだというのに、なかなか異文化理解が進まないのは、む しろ情報化そのものがステレオタイプと親和性があるからだと感じます。実体 験なしに、伝聞だけでものを理解した気になれるのが情報化の一側面だからで す。

これまで、いわゆるステレオタイプは無知の所産であって、教育レベルが高 まれば、偏見も減って異文化理解も深まると考えられてきたと思います。でも 「経験」を伴わない教育や行き過ぎた情報過多は、結局偏見の解消につながら ないどころか、時として偏見を助長する危うさを感じます。

「経験」が大切、なんていうとアフガニスタンに行って来い、とかいう話に なってしまいそうですが、そういうことではなくて、つまり「対話」なんです よね。もし僕やあなたにイスラム教徒の友達が何人かいたら、それだけで情報 の捉え方も考え方も、ぜんぜん違っているはずですから。

この投稿に対して、次の反応があった。
「この場合はそう考えるんですか」とか「キムチが好きなんですか」といった 断片的な情報だけでは異文化理解がすすまないんでしょうね。いま急速に イスラムやテロに関する情報が氾濫するようになっていますが、そういう 情報を集めるだけではなく、実際にそこに住む人、住んでいる人に接してきた 人の話を聞き、対話をすることが必要なんでしょう。 生の声を聞くことはとても有意義ですが、相互理解のためには聞くだけじゃ だめなんでしょうね。話し合いですね。
このような議論の結果、相手がよくわからないときに、最初のとっかかり としてはステレオタイプでもいいから何らかのイメージがある方がいいのだから、ステレオタイプをもつこと自体は問題にはならないという結論になった。問題になるのは、とっかりにしかすぎないものに固執してしまうことであり、そのような固執を回避するためには対話が重要ということになった。

情報を受容する能力の不完全性を考慮すると、ますます対話の重要性を痛感する。 好き嫌いの感情で情報を取捨選択した結果生じる軋轢の問題に対処するには、 自分の選び取った ステレオタイプだけでなく、同じ情報を元にして作られた他のステレオ タイプに接することが必要になる。対話をするということは、情報 分析能力が限られている人間同士が、互いの不完全さを克服するために 協力しあうことだと言える。


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