経済問題メーリングリスト

詰め込み教育

方針が定まらないままに議論をしたため、意見の言い合いだけに終わってしまった。いずれ体系化した議論に結び付けたい。

過去ログ

大平です

生活態度と教科教育(こんな言葉あるのかな?)とは独立のものなのか どうかよくわからないです。

前の投稿でちょっと書いたことですが、詰め込みをしなければいけない という環境下で育った人は、社会的ルールを比較的受け入れるような気が します。根拠はなく、直感でそう思っています。

詰め込み教育を実行することは、生活態度にも影響するような気がします。

英語でも数学(算数)でもなんでもいいです。教える内容なんかなくても いいから、詰め込み教育に従わなければいけない場を作ることが大事なのでは ないでしょうか。

懐古主義なんでしょうか?


大平です

教育問題というテーマでみなさんが思いつくことが、数学や英語といった 学校における授業内容の問題ではなく、ほとんどが生活態度に関すること だというのは興味深いですね。

情報技術のテーマのときに、情報が完全になるように努力することが大事だ、 情報をどのように利用するかは個々人の自主性にまかせるべきだという趣旨の 発言をしました。そのとき、どんなに情報を完全にする努力をしても、 情報を得ようと努力しようとしない人ばかりになったら話にならないなと 思っていました。話が拡散しすぎないように、この点については書かなかったの ですが、情報社会の問題を考えるときに、この点が一番重要だと思っていました。

情報が膨大になって重要な情報を探し出すコストが大きくなりすぎるという 問題もありますが、それ以上に、自分に都合のいい情報だけを得ようとし、 耳のいたいことからは逃避しようとする人が多くなることも、情報社会の 進展の中で考えなければいけないことです。

必要最少限のことについては、好きかきらいかを問わず、詰め込むことが 必要なのではないかというのいが私の考え方です。道徳にしろ、いわゆる 知識にしろ、最初のうちは無条件に詰め込まれることによって、自分という ものが形成されるような気がします。また、批判的にならず、詰め込まれる こともときには必要だということを覚えることも大事なのではないでしょうか。

ところが、詰め込みはいけない、自主性にまかせるべきだという風潮が強くなると、 大人は子どもに詰め込みをできなくなります。大人の生活態度が悪いので 手本を示せないという問題もありますが、何かを強制的に詰め込ませることが 悪いという風潮があると、どんな人にもしつけはできなくなるのではないでしょうか。

原田さんの「懐古主義」という投稿に共感を感じて、上のような文章を 書きました。


遠山です。

私は、このMLでの「教育問題」討議には、閉塞感を感じます。 と、いうのは、おそらく、このML参加者、ほとんどの方が、 「社会が先か、教育が先か?」と問われれば、「社会が教育に 先立つ」とお答えになるだろうからです。(潜在的に、そう考えて らっしゃる感じがします。あくまでも、「感じ」) 懐古論は、やや「教育を先に」の視点で展開する兆しがありますが、 リアリティがありません。 あくまでも懐古的です。

でも、このリアリティのなさが必要なのでは? また、また、ロマンチスト的な発言になりますが、ここまで行き詰ま っている(このMLではなくて、現在日本の教育問題で)と、もう すでに、まずは、社会を良くする、なんて時間は、なくて、 教育と社会を同時に考えていかなくてはならないんじゃない かと思います。 


遠山です。

昨今、雇用の流動性とよく言われておりますが、 ホントにこれがあるべき姿でしょうか? 日本には、雇用の流動性がない、とのことですが、 企業内での異動は沢山あります。

「流動的」といわれているところは、どういうところかと いうと、実は、専門職に限られています。  経理、マネージメント、システム等・・・ つまり、雇用よ 流動性が欲しいなら、専門職を身につけている必要が あります。 また、いくら外資系にしても、金融を10年 やってきた人がメーカーに入社する可能性は非常に 小さいと思います。 なぜなら、それが利益追求の企業 の姿で慈善事業団体ではないからです。 教育は、それに答えられる専門性を身につけられるところ でしょうか? 社会的理念や、ルールは一般的に教え られるけど、日本の学校の場合、株の買い方は教えて くれません。(かろうじて、商学部はそうかもしれないけど、 そこでは、「株とは何か」の方が主。)

それに対して、今の若者は錯覚をしてます。 専門職を 身につけるということが、3年以上の時間を要すると いうことです。 この「3年以上」という根拠は、「石の上 にも3年」というじゃないですか・・・だから。(笑) 自分の適性判断のためにもこのぐらいはホント必要かも。


大平です

あまり専門的に調べたことはないのですが、アメリカではしばらく ゆとり教育をつづけた結果、道徳的にも知的にも退廃した社会になって しまったと言われています。その結果、教育改革が始まり、それまでとは 方針を転換し、義務的に習わなければならないことを多くしました。 教育改革の開始を追うようにアメリカ経済の復活が始まったために、 やはり強制的に一定程度の教育は課さなければならないという考えが いまのアメリカには定着しているようです。

何事もアメリカを見習えというつもりはありません。ただ、つねに社会的 な出来事ではアメリカがもっとも極端な形で実験をしてくれるので、 見習うべきことは多いと思います。教育に関しては「ゆとり」の追求は 失敗するというのがアメリカの実験でわかっているのだから、日本でも これ以上のゆとりを考えるべきではないと考えるべきなのではない でしょうか。

懐古主義という表現をつかいましたが、それ以上に他国の経験に見習う べきだというのが私の考えです。シンガポールをはじめとして、教育に 力を入れている国々で経済的、社会的に活気のある状態が実現していること を見ても、強制的な押しつけ教育が必要と感じます。


原田です

社会の規範を守るためには教育が必要だと思います。社会の中で生きていくためには 必要最低限守らなければならないルールがあるわけですから。それを教えていくこと が教育で、教育の目的は個人の幸せのためにあると私は思います。それは、別に国な どから強制されるべきものではなく、権利として有しているわけですから。

別に、学校教育だけが教育ではないですよね。基本的には、教育の主体者は親にある というのが私の考えです。俗に言われる「勉強」が出来なくても、社会で生きていく ための人間としての教育が出来ていれば良いと私は思います。

今、私が危惧していることは、この社会で生きていくための基本的な教育が軽視され ているような風潮にあることです。勉強さえ出来てればとか、教育は学校に任せてお けばというような風潮です。私は自分の経験から「懐古」という言葉を使いました が、本音を言えば何故こんなに変わってしまったんだろうという気がしています。私 にとっては当たり前感覚なんです。

東京に転勤してきた当初、タバコを平気な顔して吸っている高校生を見る度に注意し てましたが、それ以前に驚いたのは回りの大人たちが誰も注意していないことでし た。この話を回りの同僚にすると「今の高校生は物騒だから、あんまりやかましく言 うと、逆切れして何するかわからないぞ。」と反対に説教されました。最近では、あ まりにも数が多い(タバコを堂々と吸っている高校生や中学生)ので私の感覚もマヒ して来ましたが・・・・。それでも、その子達の親が我が子の姿を見ると情けなくな るだろうなと、こちらまで情けなくなってくるのですが。

所で、アメリカのブッシュ大統領が最初に実行した政策はやはり教育問題でしたね。 公立学校で学力試験を実施して3年経過しても改善が見られない学校には助成金を カットする一方で、生徒には公立学校から私立への転校を促し、経済的に問題がある 家庭の子弟には金銭的な援助を行うという内容でした。この政策には私も共感しまし た。やはり教育というのは基本的に個人の問題で、お上に頼るものではないと思うか らです。

職業と教育については、また今度考えてみます。


松下です。

詰め込み教育という言葉に反応しています。 私の通っていた公立中学は、百人一首が盛んでした。 今でもそうなのかは、分かりませんが、全校生参加の 百人一首大会がありました。

競技としての百人一首は皆さんご存知だと思いますが、 上の句を読んで、下の句の札を取るのを競います。 中学1年生の時に、意味も分からず夢中で覚えました。 とにかく覚えて、何文字目迄読んだら下の句と 対応出来るか整理をしない事には札は取れません。 古典も習っていない時に無我夢中で覚えた記憶があります。 すると、覚えるだけではなく、意味もしりたくなり、意味も覚えました。 古語の意味も自然に覚え、おまけにその後古典の授業で習う 古語の活用形も自然に覚えていました。これは、とても得した 気分でした。全部とはいいませんが、これが不思議と 17年(年がばれますね…)経った今でも覚えています。

中学校にそんな意図があったかどうかは分かりませんが, 意味も無く(といっても意味はあったのですが)夢中で覚えて 良かったと思います。

最後にその中で一番好きな歌をおまけに書きます…

「ながらえばまたこの頃やしのばれん うしとみしよぞ今は恋しき」

中学1年生でこの歌の意味を知り、その後の人生にも結構 大きな影響を与えました。


おはようございます、Joseです。

「詰め込み教育」で、以前観たTVコマーシャルを思い出しました。 確か、学習塾のコマーシャルだったかと思います。

日本と英国における算数の授業風景だったのですが、例えば、教師が黒板に以下 のような問題を書いて括弧の中身を生徒へ質問してました。

<英国>
( )+( )=10

<日本>
5+5=( )

これからわかるように、英国はさまざまな組み合わせが予想されるのに対し、日 本の答えはひとつ。 同じ詰め込みでもずいぶん違いますね。


大平です

社会の秩序を守るためには、大きく2つの工夫があります。

(1) 社会道徳を強制的に教え込む
(2) 秩序を破る者に制裁を加えるルール作りをする

この2つです。狭い意味での社会の秩序を守る場合だけで はありません。環境問題や情報技術の乱用など、あらゆる社会的 出来事について、上の2つの工夫のどちらを選ぶかという問題を 考えなければなりません。

このメーリングリストでも、さまざまなテーマについて、上の2つの 工夫を議論して来ました。

ITの問題を考えていたときに、経済学をはじめとした社会科学だけ では、社会の秩序を守る工夫は作れないという趣旨の発言をしました。 上にある(2)は、ルールの抜け道を見つける者を作りだし、最終的には 根本的な解決を生まないということです。

理想としては、一人一人の個人が道徳を含めて、自分で何をよしと するかを決定できる社会が良い社会だと思います。しかし、そのような 社会を実現するためには、善悪の判断をするための情報を的確に 集め、的確な判断ができるような能力を身につける必要があります。 このような人間を作るには、最終的には道徳教育にたよらなければ ならないのかなという気がします。

成人式で暴れる若者を告訴する(2)の方法も仕方がないのかもしれ ませんが、それよりも暴れないような人をつくり出すことを考えなければ いけないような気がします。


森田です

学校の卒業証書によってその人を判断する学歴偏重社会 であるが為に、18歳のある1日にどんな成績を取るかで 残りの人生は決まってしまうとまで言われます。 学歴を得るための過当競争は学校生活の歪み、人間性までも 歪んできているように思います。 平等不平等でも取り上げられていましたが、たとえ上級学級への 進学がテストと言う客観的基準によって判定されるにしても、 学力に家庭の経済状態や親の学歴水準などが強い相関要因 として働いている事は、真に公正な選抜をしている事にはならない でしょう。

日本の学校においては画一性が顕著に見られます。 大学を例にしても学科構成は東京大学にモデルを求めているし、 教師のほとんどが日本人。学生も偏差値により輪切りされており 同質的です。諸外国ではより多様的で、入学歳、学部、在籍年数、 教師、構成を見てもより多元的のようです。 国公立大学と私立大学の間には越えがたい格差を 教員一人当たりの学生数、研究・教育条件の諸指標を見ても、 明らかに不均衡があるといえます 大学の大衆化は私立大学の諸条件を劣悪化させ、 私立大学は受益者負担の原則により、経費の増加分は学生の親に 依存していることもあげられます。

クラス編成と言う事も問題が出ているのではないでしょうか。 そこでどのような生活をするかは、学校生活の適応、不適応を 左右します。それによっていじめのような問題も生じてきます。 この集団は強制的、人為的に作られ、編成は生年月日・知能・ 性別・を考慮し各学級が類似した集団になるよう編成されており、 いったんクラスに配属されると、余程の事が無い限り自発的に 学級を移動する事は許されません。担任・固定した級友と共に 一定期間学校生活を営み、共通の課題が課され、 遂行を系統的に評価する過程についてはメリット部分もあるがデメリットも あります。 更に共通の課題については細かく規定されており、生徒各自の能力や興味を 無視する傾向にあります。 教師もそれをこなす事に躍起にならざるを得ない状況になっている様です。

以前、日本テレビで「何の為に勉強をするか」に答えられるかとの アンケートの件をについて書きましたが、続編をやっておりました。 今回は70歳以上の方から親や教師の返答に対しての投書でした。 「将来の自分の為」や「収入をより多くする為」といった利己的・功利主義的な 答えばかりで情けないと言うものでした。 この年代の方々からは、社会の為、というものが圧倒的多数のようでした。 世代別でも調べて見たいと締めていましたが、どんな教育を受けたかで その後の考え方をも左右するのであるから、教育とは人間形成の上で 非常に重要な部分を担っていると言えますね

今回は問題を列挙したような形となってしまいました


遠山です。

教育というのは、権力と強く結びついているものです。 従って、強制力を伴うものであり、社会規範を教え込む場だ ということは、あたりまえです。 問題は、その「社会規範が何か?」の方だと思います。 中身だと思います。

先のメールで「バトル・ロワイアル」を引用しましたが、これから 私たちがどういう社会を作りたいか?という考えによっては、 あのようなファシズム国家も作ることができます。  大平さんの1)と2)を強化している国は、米国です。米国が やや全体主義的に見えるのもこの部分だと思います。 この国のような多民族国家では、このぐらいしないと社会統制が とれません。 東南アジア諸国も多民族国家が多いです。 だから、米国のような統制が適してます。  しかし、日本は、ほぼ単一民族国家で、これにより伝統的慣習と 西欧的政経のダブルスタンダード国家なのです。 道徳でさえも、ホンネとタテマエがあるのではないでしょうか? (例えば、タテマエ的に「これは善」としていることは、ホンネ「皆が しているから・・」と、いうような・・) 都合のいい時にどちらかのスタンダードを利用するので、なかなか 改革が進みません。 このような社会から何を統制できるのでしょうか? 私は、いつもこのジレンマに入ってしまいます。

成人式で暴れる子供に、 「甘えるな! 何か不満があるなら、自分で解決を考えろ!」と、 エールを贈ってあげたいです。


大平です

社会の秩序を守るために一定程度の道徳教育が必要と主張しましたが、 善悪の内容を教本のようにするということではありません。

短期的、あるいは個人の視点からは、意味がよくわからないけれど 受け入れなければいけないことがあることを体験させることが 私のいう道徳教育です。要するに詰め込み教育を強制することです。 なぜ数学を学ぶのか、なぜ古典を学ぶのか、教える必要はありません。 詰め込みをされること自体が重要だという主張です。 個人にとっては無目的、無意味に思えることを受け入れるのが、 社会の秩序を守るルールを受け入れることにつながるのではない でしょうか。

詰め込み教育だけをしてしまうことは問題だと思います。 5+5がいくつになるかは強制的におぼえさせるべきものですが、 それだけでなく、( )+( )=10となる2つの数字の組み合わせを 考えさせる教育も必要です。後者は、前者の教育が終わっていなければ できないことですから、詰め込み教育と矛盾するわけではありません。 5+5がいくつになるかを教えずに、( )+( )=10となる 2つの数字の組み合わせを答えさせることはできません。 問題なのは、2番目の問題まで踏み込むか、それとも詰め込みだけ で終わってしまうかということだと思います。

詰め込むこと自体は知力の向上のためにも、上記の意味での道徳の 獲得のためにも必要です。


遠山です。

大平さんのおっしゃる「詰め込み」は「道徳」だったというのは おもしろい展開だと思います。 しかし、「道徳」というと私は やはり、社会に内包されるもの、社会が創り出し、人々の行動を 強制力を持ってある一定方向に促すもの、としての「道徳」の意味 でとってしまいます。 大平さんの「詰め込み」は むしろ「教育の技術」ではないかと思います。

もう少し「道徳」にこだわらせていただくと、最近、「道徳」ほど あやしいものはない、と思っております。 こんなに怪しいもの を教育に持ち込んでいいものか?とさえ思ってしまいます。 それで、今一度、原田さんの「懐古主義」を読んで考えました。 「真面目に努力して勉強していけば、人さまのお役に立てる人に なれるよ。」という言葉は、私にとって非常に気になります。 「人さまのお役に立てる」というのは、ものすごい美徳です。 これを教育理念に掲げていたとしたら、間違いないです。 その時代でもそんな美徳を達成できていたとは思えません。 しかし、その言葉は時代背景的に信じられていたのでしょう。 そして、やっていたことは、西欧文化の詰め込み教育でした。

現代教育にこれを持ってくることは不可能です。信憑性が全く ありません。 それで、この言葉のかわりに、技術を持ってくる ことは、確かに一案だと思います。この際、道徳を捨ててしまう。  純粋に技術的なものに持っていった方がいいのかもと、思いました。 この技術を「道徳」と言うと、いうならそれでもいいと思いました。 学力テストや、助成金や、ある一定の学力の維持など、「道徳」が 数値化できれば、わかりやすくていいと思います。  


とーやまです。

以前、不登校の子と話す機会がありました。 この子は、普通の子です。 なんで、こうなったのかわかりません。 原因といえば、家庭環境にあるかもしれませんが、それより、「こんな 生活は、あなた、本人が一番、損をすることじゃないの?」というような 問いかけ自体が愚問のようです。 

道徳問題でこだわってしまったのは、彼女には、私の持っていた 「道徳」がまったく通用しなかったからです。 道徳は、可変的、 相対的なものですよね。

森田さんが歴史的に考察した投稿と、日本テレビのアンケートの 話は、まさに、私が実感するところです。 つまり、私も含めて「いい時代だったな」です。  究極の懐古論です。


おはようございます、大野です。

批判覚悟の、無責任発言です。

巷で分数計算できない大学生が問題として取り上げられているようですけど、それが なぜ問題なのでしょう? むしろ、紙の上で分数計算できなくても、電卓あるいはパソコンで計算できればそれ でOKなのではないでしょうか? 紙の上での計算の煩わしさを省略することを目指して電卓やらパソコンの技術発達が 促されてきた事を思えば、分数計算が出来ない大学生の出現はむしろ当然の帰結で しょう。 時代時代に応じてその時に必要とされる知識は変化するもの、これが出来なければダ メという基準を持ち出すのは危険だと思います。

分数が出来ない大学生が敢えて問題だとするならば、それが問題ではないと反論でき ない当の大学生の柔軟性に欠けた知識にあるのではないでしょうか? で、その柔軟性に欠けた理由を推測するなら、やっぱり有無を言わせぬ詰め込み教育 にある・・・というのは言い過ぎでしょうか?

それから、道徳と教育を結びつけるのは日本の過去を振り返るにもう懲りたハズ、自 分としては賛成しかねます。


林です。

巷で分数計算できない大学生が問題として取り上 げられておりますが。非常に大きな問題です。 なぜならば紙で出来ないという人は電卓やパソコンを使っても 計算できない可能性が高いからです。 それから先の論議についていけないからです、、、

同じような例として地方銀行の銀行員60人に、電卓のルートキーを複数 回使う利子率の計算の問題を出したところ正答者0だったという話もあります (http://pweb.sophia.ac.jp/~t-dejima/skill.htm)。 そう、電卓も使えないのです、、、

小生は詰め込み教育に賛成です。 詰め込みというと聞こえは悪いですが、 やはり最低限のことはつめ込む必要があります。

人間全体の知識量(新しい知見など、、、)がどんどん 増えてきているのに、、、社会に出る前に、出た後に 学習する量やら質が低下するのはおかしいと思います。

詰め込みで5+5=( )を知ると同時に( )+( )=10など の創造性や柔軟性の教育(?)も必要です。 詰め込みと創造性は排他的な話ではないと思います。

2002年からの新指導要領の改悪には特に反対です。 (http://www.naee2002.gr.jpで反対の署名できます。) 教育の内容を落とさなくても、 創造性、柔軟性はゆとり教育でなくても、 身につけれるはずです。

詰め込みで得られる知識も、 柔軟な創造性もどちらも非常に重要で、両方あって始めて 知識も創造性も生きてきます。

詰め込み教育が少年犯罪増加(凶悪化)のスケープゴートとなって これ以上日本人の学力が低下していくことを懸念します。

日本は初等教育も高等教育も何とかしないと 亡国の危機にあると思います。

本当に経済政策以前の問題だと思います。


大平です

詰め込み教育が道徳教育にもなるという考え方は、確かに 道徳概念の放棄かもしれません。教育を授ける側から見ると、道徳を 放棄し、教育技術のレベルでの解決をしているのも確かでしょう。

教育する側に、(本質的な意味での)道徳がなくなっている現状では 仕方がないと思います。社会が先か、若者が先かなどと論争しているよりも、 技術であろうと何であろうと、無批判的に受け入れなければならないことが あることを教える方がましだと思います。

教育を受ける若者の視点にたてば、算数や英語を詰め込まされることと、 「いわゆる」道徳を詰め込まされることと大したちがいがあるとも思いません。

この詰め込み教育は国家がするしかないでしょう。ここで誤解のないように 言っておきますが、国家というのは庶民と常に対立する概念ではありません。 民主主義が機能しているならば、国家は庶民の利益を代弁するように行動する はずです。


大平です

詰め込み教育を道徳の面からずっと話してきましたが、それ以上に いわゆる学力のためにも重要であることは言うまでもありません。

詰め込み教育なしには知的会話はできないといっても過言ではありません。 知識がなければ応用力は生まれないということです。

また、実用的な知識だけを身につけた人には応用力がないという考えも もっています。分数の計算は、実用目的だけで学ぶのではないと思います。 抽象的な議論ができるようになることは、どのような問題に直面しても、 応用力で対処する能力を身につけることにつながります。パソコンや電卓で 計算できればいいというのは、(狭い意味での)実用重視の考え方です。 結果がわかればいいというだけなら、手計算で分数の計算なんかしなくても いいに決まっています。

95年以降、パソコンが急速に普及しましたが、決められた通りの作業しか できない人を量産しているようです。ちょっとでも自分なりの使い方をしよう とすると、なかなか言うことをきいてくれないのがいまのパソコンです。 企業の言うなりにしかつかえないパソコンユーザーの姿は、実用目的だけで 教育問題を論じる風潮と奇妙に重なります。パソコンの動作の仕組みを完全に 理解することが意味あるとは思いませんが、ある程度は原理的なことを 知っている方が応用力が生まれます。

「応用力なんかいらない」と開き直ることは、個人レベルでは構わないことだ と思いますが、一国全体が応用力、およびその元となる基礎知識を否定するよう になると、どんな状態になるのか真剣に考えるべきです。

詰め込み教育だけで終わり、応用力を伸ばす教育がおざなりになることは 確かに問題です。しかし、応用力のためには詰め込みが前提になるはずです。 詰め込みを伴わない応用教育はありえません。 詰め込み教育だけで終わることが問題だからといって、詰め込み教育を 否定してはいけないと思います。


遠山です。

教育の技術として、「詰め込み」を採用することは、問題ありませんが、 それが、今の教育問題の解決なのでしょうか?

アメリカの話の、経済成長波形と「ゆとり−詰め込み」波形の関係が わかりません。 アメリカの場合は、「ゆとり教育=道徳的、知的に衰退」 とするならば、つい去年までのITなどによる好景気は、「ゆとり教育」を 受けてきた人たちが好景気の牽引役を担ったってことですか?

また、 今現在の日本は、「詰め込み教育=少年犯罪増加」というスケープ ゴーとになっているということは、今日本は、「詰め込み」なのですか? それとも、「ゆとり=成人式で暴れる人」なのですか?

「詰め込み」がよいとする場合に、その前提で「ゆとり」があると思いますが、 その「ゆとり」の何が問題だったのでしょうか?


遠山です。

大学生が分数計算できないのは、問題ではありません。 理系や経済学を学ぶ人ができないのなら、入学試験の問題 ですよね。 銀行員が利率計算間違えるなら、それは、入社 試験の問題だと思います。

ここから、話を発展させますが、「勉強していること」と「それを 役に立たせること」というのは、ある程度連動させていないこと が、問題、と言えるのではないでしょうか? 「ライフサイクル・・・」の討議でも、問題なった「自立した人間」 を作ることというのは重要です。 自立の方法を見つけやすく するのが教育の役割でもあると思います。  職業選択と教育でも書きましたが、専門性を身につけることは 重要だと思います。 例え、分数計算ができなくても、他の能力 に長けていれば、それを活かす職業を見つけるようにすれば いいのです。  自分の得意不得意を見つけるための「詰め込み」は、意義ある と思います。 はやく見きりつけられますから。それと、選択肢 は沢山用意したいものです。    


大平です

ゆとり教育の結果が成人式で暴れる若者を生んだと思っています。 データをきちんと調べた上ではありませんが、ゆとり教育を始めた頃から アメリカでも日本でも少年犯罪が増えています。好きになれないもの、 自分には向かないと思っているものを、一時期であれ強制されることが、 人間形成に果たす役割は大きいと思います。

ゆとり教育というのは、好きなことだけやればいいよ、いやなことはやらなく ていいよという教育です。こんな教育を受けていたら、社会の秩序のためとか、 他人の迷惑にならないように、といったことは無視して自分に好きなことしか しない人間ができあがるのではないでしょうか。

道徳との関連で詰め込み教育を主張するとき、私は中身については何でもいいと 思っています。

「詰め込み教育の結果、少年犯罪がおきた」という主張がされているのでしょうか? 不登校の問題はありましたが、詰め込みの時代(昭和50年代くらいまでを 指しています)に少年犯罪はほとんどありませんでした。ゆとりの幅を広げれば 広げるほど、きれる子どもが増え始め、少年犯罪が増えています。

景気との関連はあまり考えていませんでしたが、アメリカの好景気はアメリカで 育った人に引っ張られたものではないと思っています。IT技術の開発では 中国人とインド人技術者がかなりの貢献をしているはずです。

また、一部のアメリカ人がリーダーになっていることも確かですが、子どもの 頃からエリート教育を受けてきた人が大部分をなしているのではないでしょうか。 この辺のこともデータに支えられた主張ではありませんが、好景気のはじまりの 頃にアメリカに住んでいて感じたことです。


こんばんは、大野です。

話しの流れを眺めていると、教育を受ける側に焦点が集中し、教育を与える側に焦点 が当てられていないように思います。 考えてみると、今の子供達を教育しているのは、詰め込み教育を受けた落とし子達の ハズですね。 もし、仮に「ゆとり教育」と言う制度が問題だとしても、それを容認してしまったの も詰め込み教育の落とし子達のハズですね。

「通過儀礼」と言うのがあります。 例えば「割礼」がそうです。 精神的・肉体的苦痛を伴います。 でも、それを受け入れることで子供は社会との絆を自覚するのです。

今の子供達にとって必要なのは教育よりも大人になることの「痛み」なのではないで しょうか? 誤解を恐れずいえば「鉄拳制裁」 私の小学校時代は、黒板消しは飛ぶし、黒板に線を引くときの大きな定規は振り下ろ されるし・・・。 でも、その痛みの中で少しずつ賢くなったような気がします。

おっと、随分脱線したようです。


佐藤です。

現在、問題となっている少年犯罪をはじめ、一部の政治家や警察などの不祥事は詰め 込み教育の結果であると思います。 わたくしは、道徳教育と詰め込み教育がイコールであるとは、納得できていません。

道徳教育とは、人間が人間として生きていくための善悪を教える教育であり、詰め込 み教育とは、強制的に教えることであると思います。

小中学校の義務教育で教わることは、人間として生きていくために必要な一般常識で あると思います。 たとえば、まず最初に、足し算を教える時には、5+5=10 となるのは何故なの かを教えるべきであると思う。 何故なのか、理由がわからずに押し付けるような教え方では、その次に考えるべき ( )+( )=10という発想は生まれてこないと思います。

始めて学ぶものが何であるかわからずに一方的に、詰め込み教育を行うと、好きなこ とだけやり、嫌いなことはやらないといった、ゆとり教育となって、最終的に自分勝 手な行動に出る人が現れるのではないかと思います。

強制的に教えられる教育を受けている結果、自分一人では何もできない、誰かに指示 されなければ行動できないマニュアル人間や、自分より上の立場の人間に言われたこ とは有無を言わずに従う人間が増えていると思います。


aという字は英語の場合はエー(エイ)と読みますが、ドイツ語の場合は アーと読みます。どうしてそうなのか、理屈を知らなければいけない でしょうか。言語学、人類学、その他もろもろの学問の成果を学習して、 文字をどのような音声で読むのか理解しなければ言語を学習してはいけない、 そうでなければ押しつけ教育の弊害しか生じない、と主張する人がどれだけ いるか知りたいものです。

「AならばB、BならばCのとき、AならばC」となることも、理由を理解しなければ 学習できないのでしょうか。

こういう命題は強制的におぼえなければいけません。 その後の学習をする上での前提だからです。

ずっと学習をすすめていくと、「AならばB、BならばCのとき、AならばC」 という命題も、5+5=10であることも、英語ではaという文字をエイと 読むことも、必ずしも正しくないことがわかってきます。正しいことだから、 強制的に教えるべきだというのではありません。また、正しいとは限らない ものなので、理由を理解させることだってできません。理解できるとしたら、 それは勘違いです。

上に列挙したようなことは、初心者が学習をすすめていく上で最初に方便として 受け入れた方がいいものばかりです。深く思考を掘り下げないのならば、 とりあえず他人と考えを共有するときに守るべきルールでもあります。 (むずかしい言葉では公理といいます)

最低限の基礎知識は無条件に受け入れていないと、その後の学習はいいかげんな ものになってしまいます。また、「最低限」の範囲はある程度広がりがあり方が、 どのような分野で生活をするにしても、その人の応用力を伸ばします。 ある程度のマニュアル化はした方がいいということです。 幅広い基礎知識が備わってはじめて選択肢の多様性が意味をもってきます。 (あるいは一つの分野で徹底的に押しつけ教育を受けることも同じ効果を もつと思います。)

何度も繰り返しますが、問題になるのは押しつけ教育だけで終わってしまい、 それを応用することを押さえつけてきたことだと思います。 押しつけ教育なしに応用力を語るのはまったくばかげたことです。 マニュアル化が社会問題になるのは、押しつけ教育の結果ではなく、 特定分野だけ勉強すればいいよ、という風潮の結果です。少数のことを 浅くしか経験せずに過ごした人は自分では何もできず、マニュアルにした がってしか仕事ができません。

なぜ押しつけ教育だけで終わってしまってきたのでしょうか。この問題を考える ときに、しばしば大学入試のありかたが問われます。記憶力だけを重視した入試 をしているので、高校でも入試に会わせた教育しかできない、中学以下でも 同様という主張です。この点については、まずみなさんの意見を聞きたいと思います。

大学入試については、別の面からの批判もありました。分数計算ができないこと は一般論としては問題がない。理工系や経済学など分数計算が必要な大学で 分数計算ができない学生がいるのは入試のありかたが問題なのだという批判です。 これについても意見を聞きたいです。


大平です

幅広い知識の押しつけ教育を主張する背景に、ある程度の年齢になるまでは どのような方向にもすすめるような教育をすべきだという考えがあるように、 自分では思っています。選択肢が多様になるだけでなく、多様な選択肢に 対応できる能力を身につけることが必要という考えです。

小学生のときくらいから将来の進路が決まってしまうのならば、分数計算を 必要としない生活もあるでしょうし、英語に接しなくても生きていける人生は あるでしょうから、広く浅く、よりは狭く深くという教育をした方がいいのか もしれません。その代わり、途中での進路変更はものすごく困難なものになります。

子どもときから進路が確定する社会と、高校生くらいになってから選べる社会 とどちらを選ぶのかという問題を考えなければいけないのでしょう。もちろん、 どちらの場合にもやり直しの機会はあるでしょうが、早い時期に専門化を 選んでしまう社会ではやり直しのコストは大きくなるでしょうね。


おはようございます、大野です。

ゆとり教育が切れる若者を作っている・・・と言うコトバに違和感を感じます。 教育=人格形成と言うロジックだからでしょうか・・・。 先のメールでも発言しましたが、人格は社会の中で形成されるものであり、それを教 育に期待してきた弊害がここにきて顕在化しているのではないでしょうか?

極端なこといえば学校へ行かなくても良い・・・とさえ思っています。 行きたい人が学校へ行けば良い・・・それを「何が何でも行かなくては行けない」と 言う閉塞感が子供達の心に悪影響を及ぼしているとは考えられないでしょうか?

私は長いこと電子回路設計の仕事に携わってきました。 そこで痛感したのは、日本は「モノ創り」に不適な社会だと言うことです。 ものすごくエンジニアに対する待遇が悪い。 だから今後エンジニアになりたいという人は減るし、それに伴ってますます日本の技 術力は落ちるでしょう。 勿論、算数、物理に対する魅力も薄れてくるのではないでしょうか。

この際日本はモノ創りを諦めるというのもひとつの選択肢でしょう。


森田です

教育には押しつけて教育する教育と興味を持たせて 教育した方が良い教育とあるのではないでしょうか

例えば道徳や算数の九九、読む書くと言ったものは押しつけて 教育した方がよい分野でしょう 小さい頃に覚えたものって結構覚えているものです。 こう言った時期には徹底的に道徳と言った教育を 押しこみによって教育をする方が良いと思います。

反対に社会や理科といった分野はまず興味を持たせてから 行った方が入りやすいのではないでしょうか そして、1つの分野では問題は解決しない事を自分たちの手で 発見させていくように、教師が方向づけてあげる教育があるのでは ないかしら 以前チラッと見たTVで地方に住む小学生と都会に住む小学生と PCでつないで自分たちの住む環境を自分たちの手で 色々と研究していく。それを交換して問題点を探し、 どうしたら良いのか解決方法を話し合って・・・と言ったものを 見た記憶があります。そこでの小学生は生き生きとしていた感じを 受けたのです。

私自身が思う教育は子供の時は押し付けの教育以外では 沢山の事に触れさせて自ら考えさせられる、体験できる機会を 与えてあげたら良いと思っているのです。 子供に興味を持たせることが意欲的に学習し、それが応用と して使い始めるのではないでしょうか。

どの子も各科目に最低小学校○年程度の学力を持ちなさい と言ったラインを設けラインは科目ごとに違う 例えば国語のラインは小学校6年算数は小学校4年と言ったように 最低ラインだけは押しこみ教育によって把握させる。 けれども、年数は問わない。するとクラスもないし、年齢もいろいろ。 大人が小学校に通うって事もありえます 個人で興味分野はその後伸ばして行けば良いのではないだろうか ですから、単位制ですね 国語は小学校6年まで持っている。算数は小学校3年まで持ってる。 でも、理科は大学3年まで持っているって言う子供が出て来てしまう。 それも年齢は10歳にして。って言うことがありえます。 企業はそのラインをここまでの方と募集する 年齢の枠は超高齢化社会の現在不必要なものなのではないかと 思うのです。そうすることで受験戦争は緩和されませんでしょうか。 ちょっと浅はかかな。

教育と言うものはこの時期にやらなければ駄目というような 型にはまった考えを止めても良いのではないだろうか 1度習ったけどどうしてもここが知りたいからまた 学校で教えてもらいに行くといった機関で良いような気がするのです 何時でもやり直しができるもので良いのではないでしょうか まあ、脳細胞の事を考えたら小さい頃の方が良いに決まってますが。


大平です

道徳教育は本来は社会がはたすものであって、学校教育だけに まかされるものだとは思っていません。しかし、社会の秩序を平気で 乱す大人たちに若者の教育ができるとは思いません。自分の子どもが 他人に迷惑をかけていて、それを誰かがしかっても、「変なおばさだね。 気にしなくていいよ」と言う人が多い社会で、どのような道徳教育が 可能なのでしょうか。

社会の秩序(きれない子ども)を作る主体はいまは学校しかないので はないでしょうか。でも、本質的な意味での道徳とは何かを議論し だすと、収拾がつかない。それならば知的教育にも有用な詰め込み 教育をするしかないのでは。

私の主張は積極的なものというより、いまの時代では仕方がない というニュアンスです。


大平です

もの作りを放棄するのも一つの道ですが、モノ作り以外に日本人に 何ができるのでしょうか。いままでの高度成長の歴史や、現在の日本の 経済を見ていると、モノ作り以外にろくな産業がないのが実状だと 思います。

日本の経済が優位にたてる分野はモノ作りしかないというのが、 私の考えです。いまの経済体制がモノ作りを軽視するものであるとした ら、それを改善すべきだと思います。


こんにちは、大野です。

以前、こんな話を聞いたことがあります。 その人は、例えば携帯電話のケースなどの機構設計を担当している人です。 「自分の手は1/1000mmが分かる。」

私の父親は製版業を営んでます。 彼は一度も化学を勉強したことはありません。 したがって、この分野に関しては「詰め込み教育」を経験してません。 でも、銅板や亜鉛板に関する腐食技術を体で覚えた職人です。

こんな職人サンに接していると、日本はまだまだ「モノ作り」に関しては大丈夫かな と言う気がします。

でも、「モノ創り」はどうでしょうか・・・。 未だ、純国産ロケットは宇宙へ飛び出してません。 やっぱり、「ゆとり教育」以前の教育に問題はなかったのでしょうか?


こんにちは、大野です。

子供は親の背を見て育つと言いますね。 堕落してしまった社会を正すために子供へ視線が向けられる。 どれだけ説得力を持つのかとても疑問です。

むしろ、教育の視線は今の大人達にこそ向けられるべきではないでしょうか。 リストラに怯えつつ、しかし方向転換もままならない閉塞感。 ボランティアが制度として認められ難い民間企業。 どれだけの大人が自分の仕事に誇りを持っているのでしょう。

この大人達の間にある閉塞感を大人自身が自らの手で変革しない限り、たとえ詰め込 み教育であろうと子供に対して余り意味をなさないと思います。


皆さん、こんにちは 角田知子です。

今朝の大野さんの投稿に同感です。私も学校は行きたい人が行けば良いと思います。

イギリスの経済学者、リカードも初等教育しか受けていなかったのに大人になってか ら経済学を大成したと聞きます。おくてでもルサンチマンでもそれがいい方向に働く 場合もありうる。(ただ、敗者復活戦が可能な教育社会体制は望まれる)

乱暴な意見かもしれませんが、私は「義務教育」という制度さえもう要らないのでは ないかと思います。

「義務教育は皆を等しくする」けれども、子どもにニヒリズムを生み出しはしないか ろうかと思うからです。

もし「義務教育」が義務・強制でなくなった逆に慌てて子どもも学校へ進んで行くの ではないかとも思われるのです。

それと、子どもの教育の責任や権限は全て親にあると思います。だから選択すること が必要ではあります。教師といった専門家に子どもの教育を過剰に期待し委託するの は、危険すぎるし、無理があると思う。

子どもを教育するこどを職業にするというのは楽ではないですよね。教師も待遇が満 足行くものでなければ、ペスタロッチ的教師であってもモーティベーションが薄れて しまうのではないでしょうか。この点も見直すべきではないかと思う。

つまり親と子どもが教育を選択し、学校側も自主的な責任ある経営をすべきではない だろうかということです。

ブレーンストーム的なので話が逸れてしまいました。


大平です 1/1000mmの差が分かる職人さんは、詰め込み教育は受けいていませんが、一つの 分野を徹底的にきわめているだろうから、私は問題にしていません。

ゆとり教育というのは、

(1)狭く浅くしか教育しないことであり、
(2)いやになったらすぐに自分の好きな別のことに転身していい

という教育だと思います。いやなことであっても、義務を課される 習慣がつくことが、社会の秩序を守るマナーの習得にもつながるという 点で道徳教育につながるというのが私の第一の主張です。

第二の主張は、ある程度まで深く基礎知識を身につけた 方が選択肢が増えるということです。多様な選択肢を用意しても、それに 対応できる能力がなければ、やり直しに膨大なコストがかかるから、どんな 分野のことでもコストをそれほどかけずに挑戦できるような知的能力を 身につけるべきだという主張です。

一分野をきわめた職人さんは、いやなことがあっても、その分野の師匠について がまんを重ねた結果、すごい能力を身につけたはずです。上記(2)ではない 教育を受けてきたという点でゆとり教育とは無縁の人です。狭い分野を深くきわめ ているのだから(1)にも該当しません。(1)(2)ではないような教育、 一定期間は文句を言わず言うことを聞けというような教育を受けてこそ、 人格的にも磨かれるのではないでしょうか。

一分野における能力しかもっていない場合、その分野の仕事がなくなったとき、 他分野に転身するコストは膨大なものになります。そのコストの問題はあります から、私の主張は、道徳に比重が偏っているのかもしれませんね。

ゆとり教育という言葉で私が言いたいのは、すぐにあきらめてもいいよ、 適正が合わなかったんだから仕方がないよ、と簡単に許す風潮なんでしょうね。 狭い意味での学校教育だけを問題にしているわけではありません。 自分の子どもの悪さを他人にしかられても無視する態度と同じ発想を ゆとり教育とい言葉に感じています。要するに甘やかしということです。

何度も書くように、理想としては親(大人)の自覚が必要なことは言うまでもあり ません。しかし、大人の自覚を促す考え方は、道徳問題を親の道徳・良識に訴える という考え方です。私は環境問題にしろ、教育問題にしろ、良識に期待する 政策は無意味、無効だと思っています。学校教育で詰め込むしか、いまの社会では 上記の意味でのゆとり万能論の弊害をなくすことはできないのではないでしょうか。 しかたがないから、学校教育でだけは詰め込み教育をすべきだというのが私の 主張です。理想社会の記述をしているのではなく、現在の社会状況を悲観的に 見るという事実認識に基づいた政策提言を書いているつもりです。

義務教育を撤廃するという考え方は、同じ解決の方向に向かわせる可能性を もつもう一つの考え方ですね。いまの自由化の風潮は、こういう自由競争的 考え方ですね。その代わり、教育を自由にまかせた場合に、怠けていたら 経済的・社会的に落ちぶれる可能性があることをみなが熟知していなければ ならないでしょうね。事後的に自由化をすすめた政府に文句を言うことだけは やってはいけないと思います。また、自由化がすすむとき、往々にして 金持ちが金持ちを再生産する仕組みができあがります。その可能性も受け入れた 上で選択をすべきでしょう。


柳澤です。

詰め込み教育は確かに大事です。次に何の為に勉強するのかを 小さい頃から教育する必要があると思います。原田さんの 「真面目に努力して勉強していけば、人さまのお役に立てる人にな れるよ。」 と言うことが頭にある人と無い人では随分違う人になるような気が します。 詰め込み教育プラス勉強する目的や意味を教え込む事によって、自 然に道徳と いうものが身につくのではないでしょうか。


とーやまです。

(ぎょぇ〜。 み、み、皆、昼間に・・・)

大平さんの「詰め込み」の話は、教育技術の話なので、 社会的責任や、一般的な「道徳」という概念の話ではありません。 私は、その意味では、「詰め込み」教育は否定しません。 社会が崩壊、家族が崩壊しているところでは、教育の現場しか 救いの道はないです。そこに、社会的共通資本として、ある程度 の知的レベルの維持させるという案は一理あります。  ちょっと、経済学的?な言い方になるのかもしれませんが、「社会 的基本財」をどれくらい高いレベルに保っておくか、が、このアノミー (カオス)状態の日本を、将来担っていく子供たちのために、唯一、大人が 残せる財産だと思います。

ところが、次ぎに考えなくてはいけないのは、詰め込み教育による 落とし穴です。 この方法は、単民族国家、日本、半共同体意識の高い、 集団志向型の日本人に合っているやり方なのです。  「これを、やりなさい」と、言われて一方向的にものごとを成し遂げる 能力は、過去の「詰め込み」教育の所産だったと思いますが、「自分で 考える」能力というのが欠けてしまう可能性が高いのです。  このような社会は、鎖国でもしていれば問題ないですが、昨今のグローバル 社会では、交渉能力というものも相対的に低く、他の諸国からかなり ビハインドしてしまいます。

従って、「詰め込み」は教育技術の話としては、いいのですが、そこに 「ゆとり教育」と対峙させたものとして、短絡的に採用していくことには問題 が有ると思います。 


遠山です。

「ゆとり教育=キレル子供たち」はちょっと違うと思います。 「過保護教育・社会=キレル子供たち」です。

キレル子のことを精神科医の専門用語で、「ボーダーライン(境界性 人格障害」というそうです。 (今ふうに言えば「ぎりぎり」な人?) この病気ともいえない病気の人は、衝動的で、善悪感情が不安なく、 交互に生じる傾向があり、ひどく、疎外感や「見捨てられ感」が 強いのが、世界的な傾向のようです。 欧米においては、子供のころに 親からの愛情を受けなかった子供、虐待された子供が、この病気に なり易いのですが、日本で顕著なのは、むしろ親、社会の「過保護」から くる傾向があるとの説があります。「見捨てられ感」というのは、=「強い 分離(親からなどの)不安」とも言われ、または、「自立心の弱さ」とも 言います。 

興味ある方は、丸善ライブラリー町沢静夫著「ボーダーライン/青少年の 心の病」を読んでみてください。


吉原です。

私は、学校には人間が生きていく為に必要な知恵を授ける所であって欲しいと考えて います。 現在の学校教育は知識を授ける(詰め込む)事がメインで、その知識を生きていくた めにどう応用して行くかの知恵を授けていないと思います。使えない知識はただの情 報であり、無駄な物になってしまうと考えます。 人間の頭で記憶できる量には人それぞれですが、限りが有ると思います。その限りあ る要領で、いかに効率よく、生きていく手段を記憶していくかが重要なのでは無いの でしょうか。 分数も暗算でできた方が、買い物の時などには便利です。社会の中で生きていくた め、周りの人達とうまくつき合う為に、ルールを守り、道徳を守る方がより良い(楽 しい)生き方が出来ます。(切れているだけでは、ろくな人生にならないことを教え ていくべきです。)山にこもって1人で生活するにも知識を応用した知恵があった方 が生きやすいでしょう。職人だって、その道の知識を持っていて、使って(応用し て)いるのでしょう。(一流の職人ほど、たくさんの知識と知恵を持っていると思い ます。) 知識はたくさんあった方(いろいろな事を知っていた方)がもちろん良いでしょう。 ただし、その知識も使えてこその物だと思います。でなければ、なぜ勉強する必要が あるのか?の質問に回答出来ないのではないでしょうか。 進学塾では、学校では教えない受験(勉強)のテクニックを教えてくれます。試験に 合格する事を目的とするならば、こういう(知恵を授ける)教育は正しいと思いま す。 別に学校で受験のテクニックを教えろとは考えていませんが、人間が生きていくため の知恵をきちんと教育して欲しいと思います。

それでは。。


おはようございます、Joseです。

基本的に詰め込み教育に賛成です。 ただし、「読み書きそろばん」ができれば良い。 それ以上は、本人の好きなようにどうぞというスタンスです。

ある程度の知識獲得のためにかかるコストが個人負担でなければならないとした ら、金持ちは教育を受けられるけど貧乏人は受けられない。 だから、その詰め込み教育を国が執り行う、つまり、義務教育は必要だと思いま す。 でも、あまり国は個人のレベルに介入するべきではないという意味からも、先の 「読み書きそろばん」レベルが好ましいと思います。

ただし、いまどれほど義務教育に信頼が置かれているのでしょう? もし、現実の問題に目を向けるならば塾全盛、受験戦争にまず目が向けられるべ きでしょう。


みなさん、こんにちは。角田知子です。

「義務教育の撤廃は不平等に繋がる」というご批判がありましたがそのリプライで す。

(私は13年以上も日本を離れていて、現代の教育事情に関してUp date できてい無 いかも知れませんがご了承ください。)

・まず今の義務教育制度についての問題点

日本のほとんどの小・中学生は疑うこと無しに地元の学校へ通わされると思います。 義務教育だから、その地域に住んでいるという条件で入学を許可されるというシステ ム。

親は(公立校の)教育の基本方針はだいたいどこでも同じだろうという妥当性を信じ て子どもを学校に通わせている。

一方、学校でも地元の子どもを無条件で受け入れ学習指導要綱で決められた方法で子 どもを相対的に評価している。

このシステムが教育の責任の所在を曖昧にしているのではないかと思うのです。選択 している自覚が誰にも無いからです。

義務教育のシステムを見つめ直す/存続問題をかんがえるのは教育の本質を考えるう えで価値があることだと思います。

問題の「義務教育の撤廃は不平等に繋がる」というご批判ですが私は方法次第で防げ るのではないかと思います。

例えば

1)奨学金制度の枠を大幅に広げてどの学校でも入学可能にする

2)定員制をなくす(膨らむ学校も閉鎖する学校も校長や先生の力次第)       

などなど。(今はこれぐらいしか考えられませんが、対策は他にもいろいろあると考 えられる。)

理屈ぬきに(勉強を嫌がる)子どもに勉強しろと強制しても、逆効果だと思います。 ダイエットしなきゃいけないと思っている人に「食べるな」といっているのと同じで す。

学校へいくのは宿命でななく、選択であることを子どもにも知ってもらいたいです。


こんにちは、Joseです。

法律に規定された、あるいは、学習指導要網で教育内容を定めることについては 賛成です。 ただし、その内容についての賛成ではなく、「誰でも等しく**について教育を受 ける権利を有する」というスタンスについてです。 また、そうすることで基本的に日本国内どこへいっても教育レベル(質)は一定 となるでしょう。

また、ある学区内の子供はある決まった学校しかいけないと規定する学区制も必 要かと思います。 上のように、教育内容を定めてしまえば学区を越えた学校へ行く意味はなくなる はずです。 また、教師の教え方が上手などの理由である学校へ生徒が集中すれば、学校設備 がそれに対応できず、したがって、全体として教育の質が低下するのではないで しょうか。 それを防止する意味からも「学区制」は必要だと思います。  


遠山です。
今日は、夜も遅いので、簡単にすませます。

「詰め込み」教育は、 今の現状で仕方なくとるべき手段だということで、 つまり、短期的、暫定的な意味あいがあります。 道徳や社会を取り入れると、ごちゃごちゃになちゃい ます。 しかし、やはり、そーは言っても、結局のところ・・・ 道徳や社会に帰結してしまうのは、教育問題の性なんですね。 教育現場にいる人と、そうでない人との差かもしれませんが、 短期的にとるべき策と、長期的に考えてとるべき策との2つが あると考えた方がいいのですね・・・。 「ビジョン」という言葉がありましたが、なんかこの方面の話は おもしろそーですね。  「学校なんか、行かなくてもいい」とか、 「義務教育いらない」の発想は長期計画として検討していくとこと と思います。  短期も長期も両方大事です。


佐藤です。

とても無責任なメールになるかと思いますが、職人さんやリカードのお話を聞いた り、今までの自分が関わったことを思い起こしてみると、ゆとり教育でもよいのでは ないかと思えてきました。

以前は、教育(学問)を受けたくても貧富の差により受けられる人と受けられない人 がいたが、憲法が制定されて、誰でも義務教育を受ける権利を与えられた、という歴 史(?)を考えると、家庭環境に関わらず皆平等に学習をすることができる。

しかし、公立学校だとどのような教育を受けられるのかといった学校だか情報が少な いし、学区制もある。 (基本的に公立学校だと指定された学校しか行くことできないのかしら? 私が中学 校のころは理由を言えば学区外の学校へ通えたのですが。 ちょっと大変ではありま すが。) 自分と学校が合わないこともある。 (本来は合わなくても行かなければいけないのでしょうが。)

勉強することは誰にも邪魔されずに保障されている。 そのうえで、勉強する、しないは個人次第である、と考える。 やりたくないものを無理やりやらせても効果がないし、効果があったとしても一時的 にしか覚えていない、ということが多いような気がします。(もちろんずっと覚えて いることもあるでしょうが) 今の勉強は進学や、就職の「試験」にパスすることが目的で、パスしたら記憶は失せ ていくような勉強(教育)方法ではなかろうか。 ということは、自分の希望しているやりたいことがわかった段階で、勉強をはじめて もよいのではないか。

自己責任、ということが最近言われていますが、義務教育においても自己責任でもよ いような気がしました。 もちろん、本来はあまりよくないことではあると思います。

「キレる子」の親はどのような教育をしているのか。 夫婦共働きなどといった家庭の事情はあるかと思いますが、どのような事情がある家 庭でも、家庭ごとに教育はできるはずです。 しかし、教育をせずに甘やかしているから我慢することを知らずに、キレるのではな いか。

塾などへ親が迎えにくる、時間どおりにこないと怒る。 親にも事情があって遅れることはもちろんあります。 しかし、それをきちんと子供に説明できない(=教育しない)  「塾へは自分の意志で行く前に、親の期待に応えるために行っている。」  「夜遅くに一人でほっておかれている、物騒だ。」 と、子供は考えます(中学生に聞いた話です) 親にさりげなく言ったら「自営業だと仕方がない」といい、教育を放棄している。

教師(特に公立学校)も、間違ったことをした生徒に対してもっと叱る(教育する) べきです。 家庭では教えることができない集団生活で教育することが学校であり、教師は教える ことが仕事であるし、公立学校であれば、教師の給料は税金の中から支払われてい る。 それは義務教育は国が保障しているからであるからでしょう。

なんだか、ちょっと矛盾してしまうところがありますが、勘弁してください。


みなさん、今晩は 角田知子です。

先の私のメールの文章におかしい部分があったので、もう少し述べさせて下さい。

私の主張をまとめると

1)「学校は行かなくてもいい」と言いたいのではなく「学校は行きたい人が行くべ きだ」ということ。

2)親や先生の心構えを問題にするより、制度の見直しを考えるべきではないか。 (i.e.義務教育の存続問題など)

3)大人になっても学生に戻れる教育システムの充実(e.g..通信教育など)

1)の考え方は過保護教育などでなく、子どもにも責任をとらせるというかなり厳し い考え方です。

あと、昨日のメールで「学校は学習指導要綱で決められた方法で子どもを相対的に評 価している」と書きましたが、要綱をなくした方がいいとか、先生はそれに従うべき でないとか言いたかったのではなく、採り上げたかったのは評価方法に改善すべき点 はないかということです。

教育現場にいらっしゃるかたからもご助言頂けたら嬉しいです。私の提案は現実的で ないかも知れません。


林です。

批判を覚悟で書きます。

大学生が分数計算できないのは、問題です。basic numeracy とはいいませんが、分数の計算はfunctional literacyといえます。 それが問題でないと思う人がいるということが小生には衝撃です。

試験が問題だと指摘されますが、いくら試験を難しくしても、 みんなができなければ、大学や銀行は経営上、入学者や入行者 を極端に減らすことが出来ないので、どうやっても学生の質・行員の 質がひくくなります。ひいては日本のproductivityも低くなります。 会社だって言葉の壁さえなければもっと優秀な外国人を雇いたい ぐらいではないでしょうか?

分数できなくても芸能人にはなれるかもしれませんが、 過半数の人が芸能人でやっていける社会は考えられません。

日本という国家の行く末を考えた場合、 前回話題になった、非婚化・晩婚化による少子化よりも ゆとり(ゆるみ?)教育の弊害による国際競争力の低下が 命取りになるのではと危惧します。 (個人的にも共通一次試験からセンター試験になって 受験の科目が減ったり、数学の内容が簡単になったりして 個人的には嬉しいような気がしましたが、 世の中進んでいるのに、学習する内容が減っていって 本当に大丈夫かいな?と思ったのを思い出します、、、)

では単に昔の方法に戻すのではなく、 具体的によりよい教育機会のあるよりよい社会 にしていくにはどうしたらいいのか? についてはまたあらためて書きたいと思います。


おはようございます、Joseです。

分数計算できない大学生は問題だと思います。

ただし、ここで「分数計算」は次の二つの側面から考えられます。

・「小手先の計算」:たとえば1/2=0.5というように計算の結果そのものを重視 すること

・「創造の計算」:うまい表現ができませんが、例えば1本の羊羹があったとして 1/ 2というのはこの羊羹を真っ二つにしたうちのひとつであるというイメージを 創ること

前者の「小手先の計算」の立場から言えば、電卓・パソコン・そろばん何でもあ りの現代ですから別に分数できなくても問題ないと思います。 問題は、後者の「創造の計算」です。 多分、工学の勉強した人は分かると思いますが、試験のとき必ず途中計算も評価 対象にします。(途中計算のほうが評価の比重が大きい) つまり、結果はどうでもいいんです、重要なのはその思考過程です。

直感ですが、「創造の計算」を習得するにはとても時間がかかります。 もちろん「小手先の計算」ができなければ「創造の計算」もできません。 とにかく有無を言わせず「小手先の計算」を教え込む・・・というのは「創造の 計算」ができるようになる第一歩だと思います。

「物事の道理を立てる」ためには「小手先の計算」が必要なのでしょう。 この「小手先の計算ができない」となると一体その大学生はどうやって「物事の 道理」を立てるのでしょう?

分数計算ではないのですが、経済学部の学生みていてすごく不思議だったことの ひとつが「グラフ」を描けないことです。 「グラフ」描けないでどうやって問題をイメージできるのかとても不思議でした。

確かに、覚えたことが意識の上から消えることもあるかもしれません。 でも、あるときフト思い出すことありませんか? 徹底的に詰め込まれたことというのは意識の上から消えても体が覚えているので はないでしょうか?


大平です

学習指導要領が規定しているのは、各学校で最低どれだけの項目を教育すべきか という最低水準です。教育を受ける権利や義務については何も語っていません。 (教育を受ける権利、義務、義務教育の無償は憲法26条で規定されています。) また、具体的に生徒をどのように評価するかについても何も決めていません。 (結果だけでなくプロセスも評価の対象とすべきなど、 抽象的なことは書いてあります)

学習指導要領の運用面では、いままでそこに示されている最低水準しか教えては いけない、また、それだけ教えていれば教師の義務は果たせるという形をとって きました。

いま問題になっている新学習指導要領は、最低水準を大幅に引き下げる代わりに、 運用面で「それだけを教えればいい」と解釈されていた事実をなくす努力をする ということです。要するに、指導要領が示すのは、本当に最低水準であって、 それだけ教えた後では、教師が自由な判断で教育内容を決めればいいということ です。

そこで、新指導要領に対する批判としては

(1)最低水準が低すぎる    (円周率は3.14ではなく3であるなど)

(2)運用面での解釈は変わらないのではないか

という2つと、それぞれの組み合わせがあります。

以上、議論の前提となる基礎知識です。いままでのこのメーリングリスト上での 議論を振り返ると、学習指導要領とは何かということ、教育を受ける権利、義務教育 が憲法で規定されていることであること、等々、基礎的な事実認識が共有されて いないと感じたので、念のために情報提供です。


角田知子です。

私は義務教育が憲法で規定されていることを踏まえた上で、私は義務教育の制度の見 直しを考えていたつもりです。堤清二氏がのべていたように、戦後の「日本国家が文 化的に各国から尊敬を集められるような国になる為に、政府は国民に教育を機会均等 で与えなければならない」といったような義務教育のコンセプトはいまでもvalid か、ということを実状がわからないので皆さんにお伺いしたかったのです。

また、学習指導要領についても詳しいことは知りませんでしたが学年ごとのカリキュ ラム、教育のプロセスを管理することなのだろうと本で理解していました。お伺いし たかったのは文部省 の指導要録で定めている評価のやり方がいいのかどうかでした。

新学習指導要領については情報不足なのでもうすこし勉強させていただくつもりで す。


大平です

新学習指導要領の内容はとてもすばらしいものです。このメーリングリストで 問題になってきた道徳教育についてもつっこんだ内容が盛り込まれており、内 容についても異論を持つ人はだれもいないと思います。 文部科学省のホームページ http://www.mext.go.jp から初等中等教育のサイトを探してください。そこに新指導要領の内容が掲載 されています。

問題になるのは、内容の善し悪しではなく、その実効性だと思います。 過保護社会で甘やかされてきた子どもたちに道徳が大事だよといくら学校の先 生が言っても効果がないと思います。道徳問題の道徳解決は不可能だという持 論ですね。

それでは教科教育の内容はどうかというと、「知識の確実な定着」を理由に、 最低限教えるべき内容が驚くほど少なくなっています。教科教育においても過 保護教育がおこなわれています。

道徳問題の道徳的解決ができない以上、教科教育くらい厳しくしてもいいので はないでしょうか。


大平です

どんなにすばらしい指導要領を作っても、その実施内容を文部科学省が管理し ている現状では、機械的な教育内容になってしまうような気がします。

学習指導要領を作るのは構わないけれども、同じ主体が学校を管理しているの では、各学校で自由な教育内容を作ることはできないと思います。文部科学省 をピラミッドの頂点とするような行政システムは解体すべきだと思います。


大平です

議論の方向についての提案です。

私は角田さんが示唆する義務教育制度自体の検討に非常に惹かれます。 憲法改正の可能性も含めて根源的な理念を見つめ直す必要があると思っていま す。

しかし、議論を拡散させないためには、現在の憲法は認めた上で、新学習指導 要領を肯定的にとらえるか、否定的にとらえるかを検討することを最初に議論 しておく方がいいような気がします。

短期と長期、現実と理想、その他いろいろな表現が可能でしょうが、長い時間 がかかってもいいから目指すべき理想社会のありかたを考えることと、現在あ る社会の枠組の中でどのような改善が可能かを考えることとは別です。

憲法改正を実際にやろうと思うと多大なコストがかかるので、とりあえずは短 期的にも可能なことを議論することにしませんか。現在の憲法の枠組の中でど のような教育システムを作るべきかを問題にした方がいいということです。

上記のように提案します。


遠山です。

批判されたくて、書きます。

「ゆとり教育をやりましょう」と政策的に決めた時点で、ある程度の、 特に算数・数学の分野での平均点が下がることは教育に携わる人間 ならわかっていたはずです。 なのに、実際に大学生が分数計算でき ないと言われてしまうのは、なんか本末転倒です。 私には、「ゆとり教育」に伴う入学試験のやり方のまずさを転嫁している、 責任逃れとしか思えません。  「ゆとり」にしても生産低下を防げる策を、別途やっておかなくてはいけ なかったのでしょう。

子供も大人も、それが必要だと思えば勉強していくものです。 その証拠に こんな「ゆとり教育」社会でも、お受験を目指す子供は、大人以上の過密 スケジュールをこなして塾通いをしています。 会社で、TOIEC700点以上 だと言われれば、お父さんもがんばります。 つまり、「やらなくてもいい」 といわれても試験のためにやる子はやるのです。 だからこそ、その 試験の質の方が問題になるのだと思います。 試験後に受け皿と なるところが、その段階で必要な最低能力をきちんと見極められる試験 をしているのかどうか・・・ 

「ゆとり教育」のツメの甘さだったかもしれません。


遠山です。

さらに批判を期待します。

銀行員が、利息の計算できないのは、問題ですが、万人が 必ずしも、正確な利息計算ができなくてはいけない、という ことはないと思います。  利息計算が苦手なら、ファイナンシャル・プランナーに任せれ ばいいのです。 私なぞ、確定拠出型年金となった暁には、 自分で、増やすこと考えなくちゃいけないのかと思うと頭痛が します。 住み難い世の中になりますね。

私が専門性にこだわるのもここにあります。 私よりお金の計算 が早い人が私の財産増やしてくれるなら、有り難いです。 私が、計算の勉強するより、コストかからないです。  昔、分業は新たな社会的連帯を作るといった人がいますが、 皆が得意なことを専門にすると、それに相互に依存しなくてはいけ なくて、かえって、連帯性が高くなる傾向があるとのことです。 その考え、私は乗りたい。

大学入試は、この専門性をもっとも強く試験していいところだと 思います。


大平です

入学試験の目的は入学後の学習が最大限能率的におこなえるよう、人材を 選別することです。これ以上でも以下でもありません。

それならば、経済学部だったら経済学に必要な基礎知識、理工学部なら理工学に 必要な基礎知識を入試問題に出すべきです。実際の入試問題を見ると、だいたい このようになっていることがわかると思いますが、現実には次の2つの問題が あります。

(1)入試科目が少ない大学に学生が集まる傾向があるため、経営目的で    どこの大学でも入試科目が少なくなってきている

(2)大学入試の出題は文部(科学)省の定める高校の教科内容の範囲から    はずれてはいけない。

このうち(1)は大学が連携しあって改善していこうという動きがでてきました。 しかし、(2)は大学だけではどうにも改善のしようがありません。単なる暗記に たよらない問題を作ろうと思っても、学習指導要領で教えるべき最低水準がどんどん 少なくなっていくと、ろくな問題を作ることができません。

高校と大学とのつながりは断ち切って、大学入試問題はどのように作ってもいい ことにすべきだと思います。


渡辺です。

海外へ研修に行っている間にメールが貯まり、議論が進んで、ポイントがずれ るが投稿いたします。

学習指導要領は読んでいないので善し悪しは分かりませんが、良くても悪くて も児童、生徒、学生にはことさら重要では無いと思います。やはり、教育では 先生の質が最も重要な要素で有ると思います。小学校、中学校での自分の経験 から考えての結論です。最も長い時間を学校で過ごします。したがって、そこ で接する先生の影響が大きいのも当然と思います。

 先生の問題点

  1. 学生からすぐに先生になる。社会経験のなさからくる弊害。たとえば、 学校という枠からしか見ることができない。
  2. 教育に目覚めた人だけが先生になるわけではない。 たとえば、私が中学生の時の先生は、デモしか先生(先生自身が認めて いた、多くの先生がそうであるようなことを言っていた記憶がある。先 生にでもなるか・目標がない 夢がない、先生にしかなれない・企業に 就職できない・落ちこぼれ) このような先生ばかりではないと思うが、現実にはかなりいると思う、
  3. 制度上、組織上から、先生はどんな先生でも絶対の権限を持ち、競争原 理が働くことが無く先生を続けていく。

解決方法

  1. 先生に競争原理を導入する。
  2. 児童、生徒、学生に先生を選ぶ選択権を与える。
  3. 先生に拒否権を与える。(貴方を教えたくありません。)

教師の事を考えると、制度、親、国家等を考えなくてはならなくなるが、教育 全般に選択の自由を与えることにより色々な問題が解決していくような気がす る。ある程度経済的に発展した国にでは、市場原理に教育も任せる方が良いと 思う。


遠山です。

今日は休み明けなので簡単に済ませます。

素朴な疑問で、大学入試が「文部省の定める高校の教科内容の範囲」と いうなら、なぜ、入試のための予備校や塾が必要なのでしょうか? 「詰め込み」教育を受けてきた大学の先生にとっては、今の高校教科書からは 「考えさせる問題」というのが作りにくい、という意味でしょうか? 予備校や塾は「詰め込み」教育を実践しているところと思いましたが、実は、 「ろくな問題を作ることができない」大学入試のためにあるのですね?


大平です

いままで何度も強調してきたように、応用するための知識が乏しければ 応用力を磨くこともできないので、ある程度まで知識の量を入試で 問題にすることは意味があります。

しかし、入試が何年も繰り返されるうちに、受験生は入試の段階で は教科書に書いてあることは大抵おぼえているようになって しまいます。

そこで、大学入試を作る人は2つの方向から一つを選択することに なります。

(1) 教科書の片隅にのっているような(重箱の隅をつつくような) ことを問題にする。

(2) 知識の量ではなく、応用力を問うような問題を作る

このうち(1)の方向をとってしまう大学が多いことは現状としては ありますが、こちらについては議論しても仕方がないでしょうね。 こういう問題を作るくらいなら、予備校に入試問題を外注した方が ましです。

問題は(2)の方です。知識ではなく、応用力を問う問題を作って いる大学もたくさんあります。(私が知っている範囲で昔からこの点で 優れているのは東京大学です。東大の入試問題では、昔から知識の 量はたいして重要ではありませんでした。)ところが、さんざん頭を 絞って作った応用力を問う問題に対する解答が入試の翌日には、 本来の意図とはちがうものに変質してしまいます。 塾や予備校が入試問題を手に入れてすぐに模範解答を作りますが、 問題作成者が念頭においていた回答とはかけ離れたものであることが 多いようです。

入試問題の意図は必要な仮定から出発して地道に結論にたどり着く 過程を問題にしているのに、受験屋の発想では、突拍子もない補助線を 引いてもいいから、問題さえ解ければいいという回答ができあがります。 物事の本質を問う問題を作っても、受験テクニックの前には無力という ことです。翌年の受験生にとっては、覚えるべきテクニックが一つ 増えるだけで、応用力が大事という発想は根付きません。

以上は主として数学を念頭において書きましたが、実はどの教科でも 同じです。また、入試に限りません。どれだけ物事の本質を理解する ような問題作りをしても、文句のつけようのない(つまらない)答案を 書く能力ばかりがどんどん向上しています。マニュアル化の一つの 側面だと思います。


大平です

教育について「ゆとり」とか「過保護」という面から考えてきました。 私は、こういった側面に加えて、「役に立つ」かどうかを過度に問題 にする風潮が問題だと思っています。 分数計算ができなくてもいいと主張する根拠は、おそらくこういった 実用主義ですよね。

もし実用主義が正しいなら、銀行員だって分数計算を できる必要はありません。利率計算くらいコンピュータが一瞬で解いて くれます。 鎌倉時代というのがいつころあった政治体制であり、創始者がだれである かなんて、分数以上に知ってても仕方がないことですね。百人一首を おぼえるなんていうのはもっとおかしなことです。

小学校や中学校で学ぶことは、役にたたせるために学ぶだけではないの ではないでしょうか。現代に生きる人間としてこれだけは知っておいた 方がいいという最低水準を身につける場が学校なのではないでしょうか。

また、狭い意味では役にたたなくても、どこかで何らかの形で役にたつ かもしれないことはたくさんあります。文芸作品に接し、多くの人格を 疑似体験することによって、他人の考えを理解できるようになることも 必要なのではないでしょうか。

役にたたないことは勉強しなくてもいいと平気で言うような社会では、 物事の仕組みの本質を問う問題や、人間の複雑な感情の動きを察すること を問題にする微妙な問題に対して、機械的にマニュアル通りの答えを 出す人間しか生まれないと私は思います。

「役にたつ」「役にたたない」を安易に区別し、役にたつことだけを やればよいとする風潮はなくなさないといけないと思います。


こんにちは、大野です。

先の大学入試問題に関し、「応用力」と言うコトバに反応しました。 たしかに、問題作成者の意図は「応用力」を問うことにあるのかも知れません。

でも、結果的に、その解答が「点数」と言う絶対基準でふるいにかけられるとするな らば、受験屋の行動は的を得たものではないでしょうか?

問題作成者の意図がみえないという情報の非対称性、あるいは、点数が判定基準とし て採用されていることに問題があるのではないでしょうか?

もし、応用力を問うなら、問題作成者の意図を明示すること、そして、点数による判 定を撤廃しなければならないのではないでしょうか? たとえば、一休サンのとんち問答ではないですが、面接官との一対一の問答試験など はどうでしょう?


大平です

一休さんのとんち問題とは言いませんが、すべての受験生に口頭試問を課す のが大学入試の理想です。じっくりと時間をかけて受験生の内容理解を調べる ことができれば何よりです。しかし、それは経済的に不可能です。

入試のありかたを考えるときに、利用可能な資源の制約を考えなければいけません。 いま私の目の前で慶應理工学部の入試がおこなわれていますが、この学部だけで 約1万人の受験生がいます。この一人一人に口頭試問をするのは時間的に 不可能です。

前のメールには書きませんでしたが、ペーパーテストで応用力を問う問題を 作るのは、制約条件がなければ簡単なことです。予備校や塾で簡単に対策が できないような、本当に考える問題を作ることはできます。 しかし、問題を作ることよりも、それを採点するときのことを考えると、話は 簡単にはいきません。次のような制約条件があるからです。

こういった制約条件を考えると、理想の入試とはほど遠い形でしか試験問題を 作ることができません。大学入試の場合にも、上記のような経済問題(制約下での 最大化)を考えなければいけないんです。いまある入試の形態は、制約条件を 考えずに作られた理想的なものではなく、現実の制約条件の下で作り出された 次善のものでしかありません。

大学入試を批判するときにも、上記のような制約条件の壁をどのように クリアーするかを考えての上でなければいけません。


こんにちは、大野です。

いま、フト戦前教育を思い出してます。 あの当時、小学生も竹槍持たされる教育を受けていたと理解してます。 アメリカを徹底的に憎むように洗脳するための教育ですね。

それが、戦後民主主義の時代になったといって、その教育内容が全く違うものになり ました。

時代時代によって何を教えるか、全く違う好例です。 そして何を教えるべきか、これは全くの個人を無視して国が決めること。 場合によっては、竹槍教育だってあり得る。 こんな無駄な教育・・・と異議申し立てしても無理矢理教えるというのは、一歩間違 えれば洗脳ではないでしょうか。

義務教育には無駄なものもあるけど、やっておけば将来役にたつかもしれないよ・・ ・と子供を洗脳した結果が今日の受験戦争のような気がしてなりません。


原田です

先週より2年ぶりに中国各地を回っています。香港行政特別区から大陸に入り、お隣 の深セン(中国改革開放のモデル都市)、広州、そして上海を回っています。まず変 わったことは街からクラクションの音が消えたこと。車が車線を守って走るように なったことです。ご存知の方も多いと思いますが、以前の中国ではタクシーや車に乗 るのは命がけ。車線は守らず、クラクションを鳴らし続けながら、ただひたすら突っ 走る、カミカゼタクシーの比ではなく、おまけに車体は汚く、ボロボロ状態。市内を走 るミニバス何ぞはスーツを着ては、とても乗れる代物ではありませんでした。それ が、車体は多少古い型はあるにしてもちゃんと洗車され車内も清掃せれており、ビッ クリ仰天です。

調べて見ると深セン市(広東省)では徹底的に交通法規を厳しくし、クラクションを鳴 らした場合には200元(中国では結構高額です。)の罰金を徹底して徴収し、また交通 警察の制服も一新され(昔のは人民解放軍と違いがなく、全く垢抜けてない代物。今 のは日本の警官よりスマートです。)以前に比べこれが同じ交通警察かと思えるほど キビキビとした態度で厳しく違反者をチェックし巡回しています。公共の乗り物で汚 れが目立つものはこれも罰金。また、中国では当たり前だった、ゴミのポイ捨てや、唾 や痰の吐き捨ても見なくなりました。タバコの投げ捨ても罰金。また、公共施設は基本 的に禁煙。

特に交通違反者は、罰金に加え、街での交通整理や清掃の労役も実施されています。 お陰で街の美化も促進され、特に深センの中心部では、道端にタバコの吸殻も落ちて いません。97年の香港返還後、相当に香港を意識して徹底的に厳しく、都市の美観こそ が先進的で文化的な街なのだと、かなり強制的に教え込んだようです。街のあちこち に、「文明建設、熱情服務、保持清潔」のスローガンが目立ちます。

現在の議論の話題とは次元が異なるのですが、最初に徹底して強制的に教え込めば、あ とは応用力の問題。美しいもの、サービスの良いもの、優れたものが競争社会の中で は、生き残って行くと言うことを覚え、流行っているホテルやレストランやショッピ ングセンターも本当にサービスや清掃が行き届いています。4〜5年前とは雲泥の差で す。トイレだってピッカピカ。

社会主義の国だからこそ強制も許されるのでしょうが、これをやれば社会が豊かにな るというハッキリした目的があり、それを市民も納得して実行しています。ある意味 では、羨ましい社会だなと感じています。また、教育の力の入れようは相当なもので、 英語教育や電脳教育では日本を大きくリードし、都市部の幼稚園、小学校からかなり 猛烈に勉強させられ、さまざまな分野での英才教育に力を入れています。

通信インフラも一段と整備され、先日の新聞によると2004年の携帯電話加入台数は2 億4千万台を突破する予測が立っています。それでも、全人口の20%程度ですが・・ ・・・(街を歩いていても、日本からでもちゃんと繋がるし、国際電話も没有問題。)イ ンターネット網も主だった都市には整備され、ホテルの電話や街の公衆電話から直ぐ に繋がる便利さ。ちなみに中国では郵電局(日本の郵便局とNTTにあたる)がインター ネット網を構築しており、各都市の電話番号163か167がインターネットの専用回線で す。

TWOの加盟を目前に控えた中国、日本を色々な意味で追い越すのも、もはや時間の問題 だなと実感しています。これもはやり、さまざまな意味での教育方法、システムの差な のかもしれません。最初は強制、そして応用、広い意味での教育から実感、納得してい ます。

もちろん、都市部と農村部の格差、貧富の格差は広がる一方なのですが・・・・一面で はこれも教育の格差の問題でもあるのですが。


遠山です。

めずらしく長文です。(書くの忘れてたことが多くて・・)

今ある枠組みの中で改善を考える場合、「ゆとり教育」の 失敗点は何かということに議論がありましたが、ゆとりを 持たせて、その代りに「応用力」「想像力」などを取り込み たかったのだろうと思います。 ところが、結果としてはそれらは 達成されず、ゆとりによるデメリットが目立ってしまった。

すると、やはり「詰め込み」か?  私は、詰め込みを否定はしませんが、詰め込み⇒ゆとり⇒詰め込み という循環に陥らず、それプラスαが必要だと思い、「専門性」という ことを言ってきました。 万人が全才になる必要はなく、偏才といわ れても、それにより人が社会で自立して生きていくための自信に なれればいいと思ったわけです。 それは経済的に自立するという ことばかりではありません。 

よく、芸術家や専門職の人を「あの人を才能があるから・・」と、羨む 言葉を耳にしますが、この人たちは、たまたま、自分の才能を活かす 職業がその社会にあっただけにすぎないと思います。 ほとんどの人が 人より秀でた才能を持っているのですが、活かす職業がなかっただけ だと思います。 専門を、単に、実用性でみるから、 それらを見て、子供たちは、「大人の挫折」と誤解してしまいます。 「私は、こうなりたくない」と思い、自分の能力も見極めず、何をしたらいい のか見つけられない、希望喪失感をもっている子供(大人ももちろんいる) は沢山いるのだと思います。

最近、あるフリースクール(不登校の子供たちの受け皿となっている 文部省認可のない学校)の学園長とメールやりとりをしておりましたが、 そこの学校は、「不登校。だから何なの?」という姿勢です。 社会的に 著名な人々に講義を行ってもらい、どんな社会でも生きられるようなタフ さや、金銭感覚や、忍耐、工夫する能力などを育てようとしてます。 そして、最終的には、一人一人の才能を見出せれば・・ということです。 (上田学園という、NHKや村上龍がよく取り上げている学校なので有名) それは、すばらしいと思うのですが、フト私が思ったのは、 結局のところ文部省の認可がない学校であるため、その学校を卒業 してからはイギリスの大学などに留学するルートなどを用意してます。 つまり、日本社会には戻ってこれる保障がないのです。 この点につい ては、質問しませんでしたが、もし質問したら、きっと「日本社会だけが 社会じゃない」と言われたと思います。 フリースクールの是非は問いませんが、「教育と社会」の象徴的問題 を物語っていると思います。