有機農業と地域経済

はじめに 報告書の趣旨

本報告書は,慶應義塾大学経済学部における2003年度合同演習(担当:大平哲・駒形哲哉)の一環として,茨城県八郷町を中心におこなった,有機農業にかんする調査の結果と考察をまとめたものである.

この合同演習は,「地域の発展」を考察することを目的にはじまった.世界の諸国民経済・地域経済の間には,個々のもつ内外諸条件によって域内の所得水準に大きな格差が発生している.個別の国や地域の発展は,地政学的要因によって大きく制約されている一方,地政学的要因と無関係ではないにせよ,歴史・気候・地理・文化的要因(これらは相互に連関している)から,域内における所得向上の駆動力自体にも差があるのではないか――このような認識を,方法論を異にする担当者2名が共有し,そこに同じ問題関心を抱く学生諸君が集まって本演習を開始した.

上記の問題意識を具体的に考察する対象として,われわれはまずキューバを選択した.本報告書の中に,八郷などの日本国内の地域経済からすれば,かけ離れたトピックのように思われるキューバがとりあげられているのは,このためである.

国民経済の再生産を,ソ連をはじめとする旧社会主義圏に大きく依存していたキューバは,それらの崩壊以後,厳しい経済状況におかれている.アメリカによる経済制裁等の政治的要因がなければ,目と鼻の先にあるアメリカを製品の販売市場として利用しうる可能性もあるが,しかし,経済制裁の例外としてアメリカ製品の対キューバ輸出を促進する展示会がキューバで開かれていることにも示されるように,アメリカとの経済交流は,逆にキューバが消費財供給源としてアメリカに依存することにもつながりかねない.

キューバの資源賦存条件・制約条件を前提に,もしキューバがアメリカ市場を利用しうるとすればいかなる産業選択があるのか,という点から,われわれは,キューバがなかば苦肉の選択としてはじめた有機農業に注目した.それは,有機農業をつうじて,土地集約型とは異なる農業生産(労働集約的農業)によって,量産型農作物とは異なる市場を追求できるのではないかという理由による.

とはいえ,有機農業自体についてわれわれの知識はあまりに乏しい.そこでまず,有機農業の実際を学ぶ必要を感じた.また,実際の地域の発展を考察する以上,その手段に対する理解は,いかに不十分であっても,少なくとも机上のものであってはならないとの認識から,日本国内において,特色のある農業によって地域の「活性化」を実現している地域を実際に訪れ,わずかでもその実際の状況を理解することを考えた.

それに先立ち,まず本演習に参加している学生諸君は,有機農業で著名な東京都世田谷の大平農園を訪れ,有機農業の精髄に触れる一方,量産される一般野菜と有機野菜(ないし減農野菜)との販売上の取り扱いにかんする違いを確かめるため,横浜市港北区ほかの食品販売店を視察した.そのうえで,われわれが居住する首都圏への農作物の供給地のなかから,われわれは茨城県の八郷町を選び,八郷町における有機農業への取り組みを調査することにした.幸い八郷農協の多大なお力添えを賜わることができ,調査は8月27日,28日の1泊2日でおこない,有機農業を推進する中心的役割を担う方と有機栽培農家へのインタビューにくわえ,実際の農作業も体験できた.

八郷の調査は,短い時間ではあったが,地域の発展を考えるうえで,非常に有益な示唆を与えてくれた.有機農業に取り組む生産者が,「食の安全」をめぐって,直接,あるいは生協を介する形で,消費者との連帯を強めようとしていること,そして消費者の側にもそれを求める一定の層がうまれていることが確認できたが,われわれの得た示唆はそれだけではない.

本論で詳しく述べられるように,八郷は地域経済をとりまく環境の変化に対し,個別農家が役場のイニシアティヴに依存せず,それぞれ主体的に対応してきたという経緯をもつ.一部の農家による有機農業の選択は,単なる量産による価格競争を避け,独自市場を形成するという戦略として,上記のキューバの選択可能性につうじるものがあるのではないかと思われるのである.また,有機農業については,個別農家の取り組みを基礎としつつ,一部では個別農家の取り組みと,東都生協を通じた販売とをインテグレートする農協の媒介機能がうまくはたらいている.加えて,八郷には,個別経営体として自らの存続と発展に努める一方で有機農業の集団的取り組みを牽引する「キーマン」と,農協において地域活性化全体を牽引する「キーマン」が存在し,こうした人物が,個別経営体の自助努力と集団的取り組みとを統合的にすすめる担い手となっている.すなわち八郷の調査事例は,生産経営活動の環境変化に地域経済が対応するには何が必要なのか,そのための域内の条件を示唆していると考えられる.

もちろん八郷の有機農業への取り組みはなお模索の段階にあるとみられるが,本報告書では,上記の問題意識を下敷きにしながら,八郷の有機農業への取り組みを積極的に評価して,その展開方向もあわせて考察してみたい.
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