<内容>
イギリス、ロシアの2大強国を中心としたヨーロッパ世界では、
ドイツ統一の完成は人口・軍事力ともオーストリア・フランスを
上回るものであり、ヨーロッパ世論の間ではドイツ帝国の出現
によってヨーロッパ列強国の力関係を崩しかねない不安があった。
ドイツの宰相ビスマルクは、完成したばかりのドイツを強固なもの
するため、ドイツが戦争に巻き込まれ、国力が衰えるのを避ける
ため、ヨーロッパの平和維持に努めた。
ヨーロッパ列強間の力関係といってもイギリス・ロシアの2大強
国が基軸であったため、ビスマルクの外交は両国の対立が激
化して戦争になる事を避ける事をポイントにしていた。
また、普仏戦争で自国の領土を奪われ、巨額の賠償金を課せ
られたフランスのドイツへの復讐心を未然に防ぐため、フランスを
ヨーロッパ諸国から孤立させなければならなかった。
ビスマルクは1873年バルカン半島を廻り対立しているオーストリ
アとロシアをドイツとの三帝協約で結び、当方三大君主国を連携
させた。1877年トルコに進出したロシアは、翌年サン=ステファノ
条約を結び、バルカン半島に勢力をのばすとイギリス、オーストリア
が猛烈に反対し戦争の危機をはらんだ。この戦争を回避するため
、ビスマスクはベルリン会議を開催し、調停に乗り出した。しかし、
ビスマルクはロシアの南下政策を阻止し、イギリス、オーストリアの
主張を支持したため、ロシアはドイツから離れていった。ビスマルク
はフランスを孤立させるにはあくまでもロシアを自陣に留めなければ
ならないため、三帝同盟が崩れても巧みな外交手腕をもって1887年
ロシアと改めて保障条約を結びお互いの連携を深めていった。一方で
ロシアと対立するイギリスを中心としてイタリア・オーストリアと地中海
同盟を結びロシアの野心を抑えていった。ビスマルクは秘密外交をもっ
てイギリス、ロシア2大強国の間にそれぞれに同盟・条約を結び自国
の安全とヨーロッパ世界の平和を維持しつつ、ドイツへの復讐を抱く
フランスを孤立化させる事に成功していったのである。
1890年ビスマルクが辞任すると、ヴィルヘルム2世はロシアとの
再保障条約の更新を棄却した。それによりドイツから離れたロシア
はビスマルク外交によって孤立していたフランスと露仏同盟を結び
東西からドイツを挟み込む状況になったのである。
ドイツは露仏同盟後、ロシアの東アジア進出を支持し、自らはバル
カン半島から西アジアへの進出をはかった。ロシアの東アジアへの
進出を恐れたイギリスは日本と日英同盟を結びロシアを牽制したが、
1904年日露戦争に巻き込まれるのを避け、ロシアと同盟を結んで
いたフランスと英仏同盟を結び自国の安定をはかった。
日露戦争で東アジアへの進出を阻止されたロシアは再びバルカン半
島への進出をはかって、ドイツ、オーストリアと衝突することになる。
バルカン半島での優位性を確保すべくロシアは1907年英露協商を
成立させ、従来からの英仏同盟、露仏同盟とあわせてイギリス、フラ
ンス、ロシアの三国協商が成立した。この三国協商はドイツ、オースト
リア、イタリアの三国同盟を対立し、この対立は第1次世界大戦へと
発展することになる。
<参考文献>を追記いたします。
・「世界歴史体系 ドイツ史2」山川出版社 1996年
P457〜P468 4.ビスマルク外交
・その他web検索記事 3件
*情けないことに、これについては出典が不明です。
戻る