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2003/01/28(Tue) 08:25
(1)ではなかったsectionを作った
1.ビスマルクの外交政策
2.外交政策によりできたビスマルク的国際体制
3.ビスマルク時代の周辺国の動き
4.ビスマルク的国際体制の破綻
5.どちらでもない
1.ビスマルクの外交政策
(3)ビスマルクはユンカー(商業的農業経営者)階級を保護する為に、保護関税政策をとった。
(4)プロイセンとフランスとの間に普仏戦争時代から対立関係があった
(5)ビスマルクの外交政策は、近隣諸国の中でも大国であるロシアやオーストリア、イタリア、イギリスとの関係を密接にし、勢力均衡を図るものだった。
(6)ビスマルクは「ドイツはこれ以上の領土を必要とせず平和の維持に力を注ぐ」、と明言した。
(7)これら同盟の締結により一度はフランスの孤立化に成功した。
(12)ビスマルク体制はヨーロッパの平和維持を基軸とする。
(14)ビスマルクはドイツが戦争に巻き込まれる事を避けようとした。
(15)ビスマルクはイギリス、ロシアの2大強国を中心としたヨーロッパ世界の平和維持に努めた。
(16)ビスマルクは1873年バルカン半島を廻り対立しているオーストリアとロシアをドイツとの三帝協約で結び東方三大君主国を連携させた。
(17)ロシアとの三帝協約は破産するものの、改めて保障条約を結びお互いの連携を確保していった。
(18)ビスマルクはロシアを支持しつつも、一方で対立するイギリスをロシアの脅威に利用すべく、イギリス・イタリア・オーストリアを誘って地中海協定を結ばせた。
(19)ドイツは露仏同盟後、ロシアの東アジア進出を支持し自らはバルカン半島から西アジアへの進出をはかった。
2.外交政策により出来たビスマルク的国際体制
(24)1871年のドイツ統一から1890年のビスマルクの失脚までを「ビスマルク時代」と呼ぶ。
(25)ビスマルク時代は、ビスマルクの秘密外交と同盟政策がヨーロッパの国際政治を牛耳った時期である。
(26)ビスマルク時代は、「ヨーロッパの協調」を基礎とする勢力均衡的国際秩序(ウィーン体制)から、列強の世界政策に基づく尖鋭化した国際的対立への移行期として位置づけ得る。
(27)ビスマルク時代のヨーロッパの列強は、国家エゴイズムから出発しながら、全体としては勢力均衡を維持していた。
(28)ビスマルク時代のヨーロッパ列強は、同盟協商形態に基づく国際秩序を形成していたので、対立はそれほど深刻ではなかった。
3.ビスマルク時代の周辺国の動き
(20)ロシアの東アジア進出を恐れたイギリスは日本と日英同盟を結びロシアを牽制した
(21)イギリスは1904年日露戦争が始まると戦争に巻き込まれるのを避け、フランスと英仏協商を結んだ。
(22)日露戦争で東アジアへの進出を阻止されたロシアは再びバルカン半島への進出を廻ってドイツ、オーストリアと衝突することになる。
(23)ロシアはバルカン半島を支配すべく1907年英露協商を成立させた。
4.ビスマルク的国際体制の破綻
(13)ドイツの再保証条約拒否をきっかけに、三国協商(イギリス・ロシア・フランス)が成立し、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と対立する構図となった
(29)1890年3月のビスマルクの失脚により、いわゆる「ビスマルク的国際体制」の破綻となる。
(30)ビスマルク的国際体制の破綻は、根本的にはドイツ資本主義が帝国主義的進出を積極的になしうるまでに成長したゆえである。
(31)ビスマルクの後継者は、英墺露の三国の間にあって複雑きわまる同盟条約網を操って均衡を維持する能力を持たなかった。
(32)ビスマルクの後継者は、三国同盟と英独友好の強化を外交政策の基本にしようとした。
(33)ビスマルクの後継者は、独露関係の維持に重点をおかなかった。
(34)ビスマルクの失脚後に形成された二陣営の軍備拡張競争(特に英独建艦競争)を中心とする勢力拡張が作り出すその時々の偶然の力の均衡に左右されて、国際政局はきわめて不安定なものとなった。
4.その他
(1) 1871年プロイセンがドイツを統一した。
(2)プロイセンではビスマルクが、国内での経済発展や資本主義を確立する政策をとった。