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課題文(高橋)

<ドイツ国家成立とビスマルク>
近代の西ヨーロッパでは、ナポレオン三世とビスマルクが対立した普仏戦争におけるドイツの勝利により、1871年プロイセン王がドイツ皇帝の座に着くことでドイツ民族がやっとひとつの統一国家を手に入れることになった。国家成立後は当時首相であったビスマルクが、民主性を反映した憲法の導入、金融制度や鉄道網の発達などに力を入れ、国内での経済発展や資本主義を確立してゆき、ユンカー(商業的農業経営者)階級を保護する為に、対外的には保護関税政策をとっていた。

<ビスマルクの外交政策>
ビスマルクの外交政策の特徴としては、近隣諸国の中でも大国であるロシアやオーストリア、イタリア、イギリスとの関係を密接にし、普仏戦争時代から対立関係にあった隣国フランスとの勢力均衡を図った。これらの外交関係を有する国々に警戒心を与えないようビスマルクは「ドイツはこれ以上の領土を必要とせず平和の維持に力を注ぐ」、と明言し、外交はあくまでも友好と相互の協力関係を築くためとしていた。そしてこれら同盟の締結により一度はフランスの孤立に成功したのである。

<ビスマルク外交政策の破綻>
しかし独露墺や独伊墺など3国同盟が連結を深めていくうちに、自国の農産物の輸出に勢力的であったロシアにとって、ドイツの関税政策が問題となりはじめ、ビスマルクが一貫してとり続けてきた政策が、次第に対露関係を悪化させていくことになる。その大きなきっかけとなったのは1890年の独露再保障条約更新拒否でビスマルクが出身であるユンカー階級の保護のためにはやむを得なかったのである。その後、大国ロシアはフランスとの関係を深め、1894年には3国同盟と対立する露仏同盟が結ばれることになってしまった。これ以降近代ヨーロッパでは大きく2分された勢力と情勢の更なる悪化が第一次世界大戦勃発へと導かれていくが、かつてのビスマルク政策がこのような世界を巻き込む戦争の火種の1つであると考えると、一外交政策の破綻以上の意味があると言える。

課題文(鳥海)

<結論>
ヨーロッパの平和維持とフランスの孤立化を基軸とする ビスマルク体制はビスマルク辞任後、ロシアとの再保障 条約をドイツが拒否した事をきっかけに三国協商(イギリ ス・ロシア・フランス)を成立させ、三国同盟(ドイツ・オー ストリア・イタリア)と対立する構図となり、ヨーロッパの 平和秩序が崩壊していくことになる。

<論点>

<内容>
[ビスマルク体制] ドイツの宰相ビスマルクは完成したばかりのドイツを 強固なものにするため、ドイツが戦争に巻き込まれる 事を避け、イギリス、ロシアの2大強国を中心とした ヨーロッパ世界の平和維持に努めた。 ビスマルクは1873年バルカン半島を廻り対立して いるオーストリアとロシアをドイツとの三帝協約で結び、 当方三大君主国を連携させた。 その後ロシアとの三帝協約が破産するものの、改め て保障条約を結びお互いの連携を確保していった。 ロシアを支持しつつも、一方で対立するイギリスをロシ アの脅威に利用すべく、イギリス・イタリア・オーストリ アを誘って地中海協定を結ばせた。 ビスマルクはこのような外交をもってイギリス、ロシア 2大強国それぞれに影響力を発揮し、自国の安全と ヨーロッパ世界の平和を維持しながら、ドイツへの復讐 を抱くフランスを孤立する事に成功したのである。

<ビスマルク体制の破綻>
1890年ビスマルクが辞任するとヴィルヘルム2世は ロシアとの再保障条約の更新を棄却した。それにより ドイツから離れたロシアはビスマルク外交によって孤 立していたフランスと露仏同盟を結び東西からドイツを はさみ込む状況となったのである。 ドイツは露仏同盟後、ロシアの東アジア進出を支持し 自らはバルカン半島から西アジアへの進出をはかった。 ロシアの東アジア進出を恐れたイギリスは日本と日 英同盟を結びロシアを牽制したが、1904年日露戦 争が始まると戦争に巻き込まれるのを避け、フランスと 英仏協商を結んだ。日露戦争で東アジアへの進出を 阻止されたロシアは再びバルカン半島への進出を廻 ってドイツ、オーストリアと衝突することになる。 ロシアはバルカン半島を支配すべく1907年英露協 商を成立させた。 従来からの英仏協商、露仏同盟とあわせてイギリス、 フランス、ロシアの三国協商が成立した。この三国協 商はドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対立 する構図となり、ビスマルクが創りあげたヨーロッパの 平和が崩壊していく事になる。

参考:1300字程度になってしまった草稿


参考:教科書からの抜粋

ビスマルク的国際体制

1871年のドイツの統一から1890年のビスマルクの失脚までを「ビスマルク時代」と呼 ぶ。この時代は、ビスマルクの秘密外交と同盟政策がヨーロッパの国際政治を牛耳っ た時期で、「ヨーロッパの協調」を基礎とする勢力均衡的国際秩序(ウィーン体制) から、列強の世界政策に基づく尖鋭化した国際的対立への移行期として位置づけ得 る。すなわちこの時期には、ヨーロッパの列強は、国家エゴイズムから出発しなが ら、全体としては勢力均衡を維持し得るような、同盟協商形態に基づく国際秩序を形 成していたので、対立はそれほど深刻ではなかった。 (後略)

ビスマルク的国際体制の破綻

1890年3月のビスマルクの失脚によるいわゆる「ビスマルク的国際体制」の破綻は、 根本的にはドイツ資本主義が帝国主義的進出を積極的になしうるまでに成長したゆえ であり、その意味において構造的なものであった。破綻の始まりは1890年4月の、ド イツによる独露再保障条約更新拒否にあり、この拒否の背景にはドイツの農業保護関 税の強化に由来する独露関係の疎遠化が存するのはもちろんであるが、ビスマルクの 後継者は、英墺露の三国の間にあって複雑きわまる同盟条約網を操って均衡を維持す る能力を持たず、三国同盟と英独友好の強化を外交政策の基本にしようとしたがゆえ に、独露関係が犠牲に供されたのであった。この結果、ビスマルクの恐れたごとく、 露仏両国は、経済的金融的に接近し始め、1894年露仏同盟が成立した。ここで、従来 ドイツを中心に張り巡らされていた同盟条約網は破られ、三国同盟と露仏同盟の対立 が出現した。

イギリスの政策転換

1890年代末に至って列強の帝国主義的対立の激化から、イギリスは、・・・(中略)・ ・・伝統的外交政策であった「名誉ある孤立」を放棄し、同盟政策をとる。 (中略)・・・日英同盟(1902)、英仏協商(1904)が成立した。

三国協商

(中略)・・・ここにおいてヨーロッパのほとんどの国は三国同盟と英仏露の三国協 商のいずれかに系列化され、国際政治は判然と分裂した二大陣営間の力の均衡に委ね られることとなった。・・・(中略)・・・両陣営の軍備拡張競争(特に英独建艦競 争)を中心とする勢力拡張が作り出すその時々の偶然の力の均衡に左右されて、国際 政局はきわめて不安定なものとなった。


第4回勉強会

期間: 1/18(土)〜2月2日(日)
課題: 2000年レポート課題集から西洋史の課題
「ビスマルクの外交政策の展開とそれによって成立したビスマルク的国際体制の破綻について述べなさい。」
書き方: ・結論とそれを導く論点を明確にする
・読者に多様な解釈を許さない文章表現を考える
・自分が理解できた内容を読み手に正確に伝える
以上を考慮に入れ800字程度でまとめる
執筆: 高橋、鳥海