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大学で何を学ぶか
問題設定
大学でなにを学ぶか、あるいは大学生である間になにを するかという問題を考える。いわゆる教育ということだけにこだわらず、 大学生という一種の特権的な位置にいる間になにをなすべきかを考える ことにする。現段階では、考えられる可能性を列挙しているだけである。 ( 2002年9月1日現在 )
念頭にある大学生像
ここで大学論・大学生論を展開 するときには、日本国内の高校を卒業して数年以内に入試を経て大学生となり、4年間 の大学生活の後には企業に就職することになる典型的大学生を 念頭におくことにする。 最近は、社会人入試や帰国子女入試、その他の形で大学生になるパターンが登場し はじめている。外国人留学生も多い。 上記にまとめた形の学生がいつまで典型的学生である かは分らないが、現状およびこれから数年はここでの議論が有効だろう。
大学でなにを学ぶか
次のような回答がありうる。
- 知性を磨く
多くの大学論を読むと、まずまっさきに知性を磨くことが大学時代になすべき ことだと書いてある。もっとも、大きくわけるとという二つの種類の主張がある。前者は、大学を 専門知識を身につける場と考える。後者は、専門分野以外の問題 についても論理的に考えることができる能力をつける場 が大学であるとする。
- 所属する学部の専門分野を身につける
- 専門分野とは直接関係なく、論理的にものごとを考える能力を身につける
- 知識を蓄える
上でまとめた「知性」という言葉は、知識と同義語ではない。 知識がどれだけあってもそれを活用する能力がなければ知性があるとは言えないし、 活用する能力はあると言い張っても知識が不足していたら、その能力は 無意味なものになってしまう。ものごとを考える材料となる知識についても大学 で学ぶことは多い。- 感性を磨く
知性面ではなく、感性面での人間形成をおこなう場として 大学をとらえる見方がある。友人と交流し、場合によってはスポーツ、 その他の集団活動を通して心を発達させていく。自分探し、個性の形成 といったキーワードで理解できることを大学生であるうちに こころがけるといい。- 幅広い人間関係を作る。(友達作り)
東大閥、三田閥という言葉がいまでもつかわれているように、どんなに 実力社会という風潮が強まってきても、いまだに学閥が社会を動かす 一つの力になっていることは否定できない。郷土閥とならんで、今後も 学閥が社会人の行動を支える一つの力になるだろう。しかし、学生 時代からそのことを意識して友達作りをし、社会人になってからの ネットワークを作ろうとしている学生は、たとえいるとしても無視できる 少数者であろうから、ここではこのような意味での人間関係の形成という 視点は考える必要がないだろう。人間関係を作るということは、喜怒哀楽の 情をわかちあう仲間の形成ということに集約される。そこで、この点は第三の 論点である感性を磨くことと一緒に考えればよい。- 自由になる時間を豊富にもつ(モラトリアム)
大学生である間は、高校生までの期間や社会人になってからの期間に比べて、 自分で自由につかえる時間が多い。この自由な時間を知性、感性を磨くことに つかうこともできるが、ひたすら無為に過ごすこともできる。 無為にすごすこともできる時間をもつということは大学生ならではの 特権である。- 大学卒業資格を得る
大学卒であるか否かで人間がどれだけちがうかは疑問もある。しかし、 少くとも次の点で大卒であることを選ぶ人々がいる。
- 大卒であることに一種の誇りをもつ。見栄で大卒であることを選ぶ。
- 現在の日本企業の雇用慣行を見ると、大学卒であることが就職にとって きわめて有利にはたらく。
- 就職後の社内の昇進でも、いわゆる実力とは関係なく大学卒の肩書が 有利にはたらくことが多い。
- 子供から大人へのステップアップとしての期間を有効につかう
高校までの少年・少女は社会の中では子供として扱われており、 自由奔放に活動をすることができる代わりに親や社会の管理下におかれるため 行動に大きな制約がかかる。大学卒業後の社会人になると、自分の判断で 行動できるようになる面が多いが、大人としての責任を引き受けなければ ならない。大学生はこのような意味での子供と大人の中間的存在であり、 高校生に比べると社会の管理の度合は小さくなっているのに、ある程度までは 責任を負わずに行動できるという特権が社会の中で暗黙のうちに認められ ている。自由奔放な生活と責任を負わなければならない重圧とのバランスを 要求される大人の考え方にすこしづつ慣れていく訓練の期間であると同じに 、そのような意味での大人の考え方に反発することによって社会全体の 活気をつくり出す担い手になるのが大学生の役割と考えることができる。