通信教育関係

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新しい開発の見方

2004年2月:ラジオ短波での放送
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第4日(2004.2.27)参加と自立

新しい開発の見方では、開発の目的と手段を明確に区別することはありません。開発のために重要な諸要素は、互いに一方が他方の原因でもあり、結果でもあります。

あえて開発の目的を一言で語れ、ということでしたら「すべての人々、およびその社会が全体として、尊厳ある暮らしを送ることができるようになること」、それが開発の目的と言うことができます。
  1. ある程度モノが豊富にあること
  2. 保健・衛生状態がよくなること
  3. 教育水準が高くなること
人間開発指数では、この3つの論点を見ました。センの潜在能力について整理したとき、この3つのほかに「自立」という論点を指摘しました。(1)

自立がなければ尊厳ある暮らしはできません。人間開発指数でどれだけ良くなっても、自立できていない状態では、その社会は自尊心をもった暮らしができているとは言えません。

自立という言葉には大きく2つの意味があります。反意語を考えることでそのことを理解しましょう。自立という言葉の反意語の一つとして「依存」があります。他人からのモノの施しを受けながら暮らさなければいけない状態が「依存」です。自分たちの労働の成果や自分たちのもっている資源だけでは、自分たちの生活を維持することができないとき、その社会は、資源や生産物を外部にたよらざるをえません。自分たちのもっている資源や生産物を代価にして外部のモノと交換するのなら「依存」とは言いません。ここで問題になる「依存」とは、外部からの一方的な資源、生産物の移転に頼った経済生活をしなければならない状態のことです。(2.15)

そもそも貧困には2つのケースがあります。第1は、生産的資源を効率的につかっているけれども、生産能力が低いので貧困状態になっているケースです。この場合には、教育や保健・衛生環境の整備で潜在能力を高めることが必要です。第2のケースは、生産的資源を効率的につかっていないために、せっかくの潜在能力を活用できずに生じる貧困です。第1のケースでは、潜在能力を高めるための外部からの援助が絶対に必要です。新しい開発の見方では、「成果の水準(達成度)で測る」ことと「その人が最大限達成できることに比べてどの程度達成されていないかで測る」こととも区別するようになっています。できることは自分でする、できないことは他人にたよるのは当然のことです。依存状態それ自体は、決して完全否定しなければいけないもの、というわけではありません。むしろ問題になるのは、自分たちで積極的に働かずに、いつまでも外部の資源や生産物をたよりにしようとする援助依存、補助金依存の体質が生まれることです。依存心・依存体質が生まれてしまうことは、自尊心ある暮らしにはつながりません。(4)

自立の反意語の2番目として指摘できるのは「従属」です。「依存」が問題になるもう一つの理由は、それが「従属」状態を生み出すことです。ここで「従属」という言葉は、その社会をどのように運営するかについて、外部の社会、外部の人々の意思決定が支配的な影響をあたえる状態の意味でつかっています。簡単に言えば、「モノを出すから、言うことも聞け」ということです。もちろん、このような雑な表現を露骨にすることはふつうはありません。しかし、援助とか補助金には、「モノを出す側が受け取る側に対して意思決定上優位になる現実」がふつうはあるものです。(5)

このような支配・従属関係が生み出されたとき、従属する側の人たちは、自尊心ある暮らしができているとは、到底言えません。自分たちのことを自分たちでは決められない状態、自分たちのことを他人に指図される状態は、自尊心ある暮らしとは程遠いものです。

いま話していることは、個人の暮らしの問題ではなく、社会全体としての暮らしや自尊心の問題です。個人の話の類推をそのまま適用することはできません。それでも、個人の場合でも、人それぞれの状況に応じて可能なかぎり自分で生活できるようになること、どのような場合にも他人に指図されながら生きるのではなく、自分で自分のことを決めることができる状態が望ましいという点は、個人でも社会全体でも同じでしょう。(6)

少し整理しましょう。まず という言葉づかいをしました。依存心をもってしまうこと、従属状態に陥ってしまうことは自尊心ある暮らしを不可能にする点で問題、というのがここまでの結論です。この意味で自立が重要なのです。

潜在的な潜在能力

援助依存、従属は、働かないでいたことによる当然の報い、自業自得ではないか、と考える人もいます。貧困は働かなかったことの結果という考えです。しかし、現実には、もともと怠惰だったというわけではない人たちに対して、無償の一回限りの援助をすることで依存心を芽生えさせているのは、実は援助側であることが多いです。依存心をもってしまう弱さはどのような人間の心の中にもあるものです。安易な援助プロジェクトを設計することは、その弱さを刺激するだけです。(7.5)

また、分配の状況が不適切なために、必要なところに必要な資源がまわらないことも多いです。この点についてグラミン銀行の事例は大きな示唆をあたえます。グラミン銀行とは、極貧(非常に貧しい)人々への貸出に特化したバングラデシュの銀行です。ふつうの銀行では貸出をしないような、ごく小額の資金を極貧層の人々、とくに女性に貸した結果、農村の貧困状態がめざましく改善しました。ほんの少額だけれども、それを有効につかって商売をし、多くの人々の貧困状態が改善されました。それまで、怠けているだけ、たとえカネを貸しても踏み倒すだけ、と思われていた貧困層が、実は大きな潜在能力をもっていたことを実証する事例です。貧困は怠惰の結果ではなく、チャンスが欠如していた結果である、潜在能力を発揮するチャンスが与えられれば解決する貧困問題もあるのです。このグラミン銀行の経験は、またたく間に世界中に影響をあたえ、マイクロ・ファイナンス=小額の融資による貧困救済が世界各地でおこなわれています。そのどれもが成功しているとまではいえませんが、わたしたちには想像できないような潜在能力が貧困の中にも埋もれていることを世界中の人々が発見していることは忘れてはいけないでしょう。ちょっとした工夫で、自らの運命を切り開く能力をもっている人たちの自尊心を勝ち取ることができるのです。

センはagentという言葉をときどきつかいます。彼がagentというとき、その言葉には「 行動し、変化をもたらす人物、そしてその業績を何か外部の基準によって評価される(だけ)ではなく、その人自身の価値と目的を基準に判断されるような人物」という意味が込められています。人間とはこの意味でのagentであるべきだというのがセンの主張です。 自分にできる範囲で自分が良いと思うことをせいいっぱいする・できるような社会を実現することが、開発のありかたです。(10)

潜在能力の向上、および埋もれている潜在能力の有効利用をするような開発政策、援助政策が新しい開発の見方では強調されています。そのことで、自尊心ある暮らしをするためです。

参加

では、自立のためには具体的にどうすればよいのでしょうか。

伝統的な開発方式に加えて、現在、新しい開発の見方で重視しているのは「参加」です。開発の利益を受ける人=受益者も、プロジェクトの作成、運営に参加する、ということです。

伝統的な開発方式では、開発プロジェクトを企画し実行するのは、大企業であったり、政府であったりでした。プロジェクトとは関係のない地域に住むビジネスマンや技術者、役人が設計するプロジェクトを、プロジェクトは関係のない地域に住む人々が実施するのがふつうでした。プロジェクトが実施される地域の住民、プロジェクトで想定されている受益者が参加することは、例外的な場合を除きありませんでした。

現在は、できるだけ多くの局面で受益者である地域住民が参加するようになってきています。開発プロジェクトの企画・立案段階、実施中の評価、実施後の評価、等々、さまざまな局面で地域住民の意見を参考にするようになってきています。(11.5)

まず、受益者が参加することで、ニーズの把握が正確になりました。受益者の意見を聞かないままにプロジェクトを企画すると、本当のニーズとは関係なく、他の地域でも喜ばれたからここでもそうだろう、とか、教科書に書いてあることだからいいプロジェクトだろう、といったような理由でプロジェクトの内容を決めていました。ひどい場合には、受益者とは関係なく、プロジェクトの施工をする企業にとって金儲けになるから、という理由だけでプロジェクトの内容を決めることもあったそうです。受益者が企画、立案に参加することで、本当のニーズにあったプロジェクトにすることができるようになっています。

プロジェクトの実施後の施設の維持・管理は地域住民がおこないます。作るまでは外部者が関わりますが、作った後は地域住民の管理下におかれるわけです。プロジェクトの最初から受益者が参加することで、実施後の維持・管理のこともきちんと考えたプロジェクト作りができるようにもなりました。(12.5)

自分たちが参加しているんだ、外部からただ受け取ったものではなく、自ら参加して作り上げたものだ、という意識で地域住民がプロジェクトの成果を見るようにもなりました。依存心を芽生えさせることもないし、自分がいわばagentとして開発に取り組んだという自尊心も生まれるようになってきているわけです。開発の内容作りや開発のプロセスに参加し、当事者意識をもつことが、自尊心をもつ何よりのきっかけということでしょう。日本国内の地域開発でも、最近は地域作り、まちづくりNPOをはじめとした、地域住民の発意、自主的参加による地域経営がおこなわれるようになっていることは、ご存知の人が多いでしょう。(13.5)

世界銀行の調査によると、 ということです。

実証的にも、参加の重要性が確認できているのです。(14.5)

もちろん、現実には「参加」すること、「参加」を促すことが万能の解決策というわけではないでしょう。実際に参加型プロジェクトを実施するためには、わたしたちは言語にたよらなければいけません。受益者が正確に自分のニーズを知っていたとしても、それを言語で伝えることができなければ、そのニーズをプロジェクトに反映させることはできません。ところが、自分の心の中にあるものを言語で表現することは、実際にはとてもむずかしいことです。また、受益者自身が自分のニーズを正確に知っているとも限りません。何をすべきかを判断するための情報がたりない場合もあるでしょうし、人間とは本来、自分の必要としているものを正確に知っているわけではない、とか、言語では表現できない行動の中に真のニーズがあるという本質論を展開することもできるでしょう。

いま話題にしていることは、個人の問題ではなく、社会・集団の問題です。ニーズを言語化することが可能であるとしても、それを集団の中でおこなわなければいけないので、どうしても、発言は公式のものになってしまいます。本音と建前という言い方が適切かどうかわかりませんが、要するに、建前の発言をしなければいけない、という問題が生じるのです。コミュニティ内の有力者に迎合した意見だけが公式発言として出てくる場合もあるでしょう。

「参加」を促すことが奨励されているため、形式的に「参加」を装ったプロジェクトをすすめてしまうこともあるでしょう。援助プロジェクトでは往々にして、この問題が生じます。大事なのは、地域住民が自らの意思決定権を確保することなので、本来は「参加しない」意思決定も重視すべきですが、それでは書類上は「参加型ではなかった」という烙印を押されてしまうので、住民の意思に反した参加型プロジェクトを実施してしまう、という本末転倒もおきます。

このように、実際の現場では多くの問題がありうることは確かです。しかし、問題は参加型、およびそれによる自立の概念にあるのではなく、現場での経験や、人材の不足でしょう。「自尊心ある暮らしを確立する」という基本をきちんと抑えながら、どのように参加型開発をすすめるか、自立を達成するかを工夫することが今後の課題でしょう。 (17.5)

経済学はどうあるべきか

センの潜在能力の概念を手がかりにしながら、新しい開発の見方を整理してきました。 といった話をしてきました。「経済だけではだめ」という話だったと言ってもいいかもしれません。目的面でも手段面でも、非経済要因を重視するようになってきているわけです。

ここで注意してもらいたいのは、「経済だけではだめ」ということと「経済学ではだめ」ということとは同じではない、ということです。経済以外の要因を重視する姿勢を経済学で分析することは可能ですし、むしろ経済学こそが最強の道具です。いままでの経済学では、あまりにも極端に孤立した個人を想定していたり、プロセスではなく結果だけを重視していました。センの批判するとおり、そのことは問題です。しかし、「自分の利益を最大にする個人の行動を分析する」という経済学の発想は、現実の認識としても妥当であろうし、理念的にも非難される筋合いのものではありません。(19)

人間は孤立した存在でもないし、集団に一方的に帰属する存在でもありません。両極端ではなく、中間的なバランスのとれた存在です。社会の中で生きながらも個人の利益を最大にするように人生を営んでいるのです。そういう個人が集まっている社会のありかたを考えるときには、個人行動から出発して、経済全体の状態を解明する分析が必要になります。それは、まさに経済学そのものです。個人が経済的動機に支配されているのか、それ以外のことも視野に入れているかは、経済学の適用可能性とは関係のないことです。経済以外の要素を含む経済学の分析をすることが可能です。

世界には多様な価値観が混ざり合っています。実際の開発のことを考え、実行するときには、さまざまな価値観の間の利害調整をすることが主な仕事になるのがふつうです。どれだけすばらしい開発プロジェクトであっても、たいていの場合は、それに賛成する人、反対する人、無関心の人がいるものです。協力すればうまくいくのに、互いに相手の出方を疑ったり、妨害工作をしたりして、失敗とまではいかないにしても、一番うまくいく場合よりもはるかに悪い結果しか出せないことが多いものです。情報が不足しているために、互いの出方を予想しながら行動する結果、最適な状態ではなく、セカンド・ベスト(ベストではない状態)しか実現できないことを、ゲーム理論と呼ばれる手法をつかった経済学の道具で分析できます。

利害の中身ではなく、利害関係が錯綜していることで、経済学の手法が必要となるのです。経済学という学問は、分析対象によって分類されるのではなく、分析方法によって分類されるものなのです。(21.5)

独立自尊

福沢諭吉は「実学」ということを重視しました。ここで実学とは、浅い意味で「役に立つ」ことではありません。経験や実証に支えられたこと、多様な価値観をもつもの同士で共有できるようなこと、といった意味合いです。盲目的に殿様や上のものを敬えという教えに対立するための実学です。前回、新しい開発の見方をささえる重要な要素として人間開発指数の話をしました。かなりの時間を割いて数字で開発のありかたを考える意味についても語りました。数字で語るのは、実学重視ということです。数字では語れないことを強調するのは正しい批判ですが、その批判をするあまりに数字で語ることを否定しまうのは、実学の否定です。数字や方程式で語ることで、実証的な土台にたった、多様な価値観のもの同士にも共有可能な議論ができるようになります。数字や方程式の限界をきちんとわきまえる冷静さと謙虚さをもってさえいれば、むしろ数字や方程式で語ることが必要なのです。

不可能性定理のことも思い起こしましょう。
  1. 個人の豊かさを測定することはできないし、個人間の豊かさの比較はできない
  2. 対等な議決権をもつという意味での民主主義
  3. 多様な価値観の存在
この3つを前提にしたとき、わたしたちは社会的な意思決定をすることができません。結果として、社会全体として貧困問題に取り組むこともできません。3つのうちいずれか1つを犠牲にしなければなりません。(23.5)

民主主義や多様な価値観を否定するよりは、個人の豊かさの比較ができる、と考える方が私はいいと思います。社会の中には貧困問題は重要ではないと思う人もいるかもしれません。そのような人の存在も尊重しながら、でも、みんなの考える豊かさを足し合わせた結果計算できるものとして人間開発指数を考え、それを大きくすることが重要だと考えれば、民主主義や多様な価値観を前提にしながら、社会的意思決定ができます。 人間開発指数という数字で語ることで、民主主義や多様な価値観の存在も守ろうとしているのです。開発学が実学であるためには、数字や方程式で語るべきなのです。



慶応義塾で学ぶみなさんは「独立自尊」という言葉を聞いたことがあるはずです。「独立」という言葉だけを見て「一人で何でもおこなう」というような意味で理解している人が多いかと思います。本来の意味は次のようなものです。

「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」

独立自尊という言葉をつかうとき、福沢の念頭にあったのは、他人のためにではなく、自分のために生きることの重要性、自分を好きになるような暮らしの重要性です。批判の対象は江戸時代の封建制度です。殿様のために生きる、上のもののために生きなければいけない封建社会を否定したのです。人間は決して孤立した存在ではありませんが、誰かに従属しなければいけない存在でもありません。 自分のために生きる、自分を好きになるような暮らしができるような近代文明社会を作ろうとしたのでした。

心身(心と身体)の独立は、GDPに加えて重要ということで、人間開発指数の中で追加された2つの要素です。独立自尊の社会であるためには、教育水準、保健・衛生環境の整備にとりかかる必要があります。経済的にも自立・独立することで、自尊心ある社会を作り出すことができます。新しい開発の見方は、実は慶応義塾の建学の理念そのものというわけです。

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