通信教育関係

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新しい開発の見方

2004年2月:ラジオ短波での放送
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第3日(2004.2.20)人間開発指数

センの言う潜在能力を向上させることを開発の目的に設定すべきだ、という考えは多くの人の共感を呼びました。結果としてどれだけの満足をしたかではなく、チャンスがあたえられたときに、自分にとってもっとも良い形でそのチャンスを活用する能力が向上することを目標にするべきだ、と言われて反論をする人はあまりいません。

しかし、理念としては理解し共感できても、それだけでは現実の開発の現場が変わるわけではありません。具体的に現実の開発のありかたをどのように変えたらいいのか、理念の主張だけをしているのでは何も語ることができません。具体的な指針(方向付け)がないのならば、どれだけ立派なことを言っても意味がありません。結局はGDPの拡大を目標にする考え方が支配的なままになってしまいかねません。(1)

そこで、GDPに変わる政策目標として考案されたのが人間開発指数です。Human Development Index、略してHDIと呼ばれる指標です。

人間開発指数をもっとも単純に説明すると、経済的豊かさの代表的指標としてのGDPに加えて、教育水準と平均寿命も盛り込んだ指標とまとめることができます。3つの要素を対等に盛り込むので、式で言うならば

1/3 GDP(経済)+1/3 教育水準 + 1/3 平均寿命

の合計ということになります。(2)

念のために注意しますが、人間開発指数 HDIでは、GDPを政策目標にする意義を否定しているわけではありません。GDPを否定するのではなく、GDPを一要素として含む、もっと大きな(一般的な)指標を作ろうという試みに他なりません。経済的豊かさを追求する開発政策の失敗に対して、論者によっては経済的豊かさを否定する発言をする人もいますが、そのような発想は人間開発指数にはありません。

経済的豊かさはやはり大事です。それを否定してしまうのではなく、経済的豊かさだけではだめだという発想で、経済的豊かさに加えて、教育とか平均寿命にも目を配ろうという考えです。(3)

経済的な豊かさがなければ人は生きていくことができません。 人の心に余裕は生まれませんし、他人とモノを分けるのでは、全員の命が危ぶまれることがあります。モノがあふれる社会では清貧に思想(清く貧しく生きようという思想)も一定の説得力をもちますが、飢え死にをする人の前では清貧の思想を唱えることは許されないことでしょう。ある程度の経済的豊かさがあってこそ経済的豊かさに対するケチをつけることができるのです。

人は生きるために経済的豊かさを備える必要もあるということです。尊厳ある暮らしはモノをもっていることによって担保されているのです。そこで、生きるために必要なこと、すなわち潜在能力の一つとして経済的豊かさを考えるわけです。どれだけ個人的に能力があっても、経済的に豊かでなければ、他の人と協力して活動をすることが困難になり、結果として潜在能力を十分に発揮することはできません。経済面での豊かさは、他の人と一緒に生活し、活動するためにも必要なのです。(4.5)

具体的には、人間開発指数では、経済的豊かさを示す代表であるGDPを考えます。

それに加えて、精神面・知的な面での潜在能力の代表指標として教育水準、身体的な潜在能力の代表として平均寿命を考えます。いわば人間開発指数とは という3つの潜在能力をバランスよく3分の1づつ足し合わせたものと言ってよいでしょう。(5 1/4)

教育水準が低いところでは、文字を読んだり数字を数えることができない人が多数います。そういう人たちは、なにかのチャンスに出会っても、そのチャンスを有効に利用することができません。他の人にだまされることもあります。フェアな取引をしていれば、もっと良い生活を送ることができるのに、他人に騙されて苦しい生活をすることは豊かとは言えないでしょう。

自分が接したことがない世界にどのような人たちが住んでいるのかを知れば、その人たちに売れるモノを開発してみようという意欲が生まれます。外国の言葉を知っていれば、外国の人たちと商談をすることができますし、数字に堪能であれば自分に有利に商談をすすめることができます。インターネットが発達した現代では、パソコンやメールのつかいかたを熟知することも大事でしょう。文字や数字に関する知識は、家庭の中だけではなかなか身につけることができません。とくに、貧困問題が深刻なところでは、生きていくために働く時間が多く必要なので、家庭内で教育をする余裕がありません。それどころか、子供を労働に従事させることも、多くの途上国ではあたりまえのようになっています。貧しいので、教育機会(教育を受けるチャンス)がなく、そのために貧しいままでいる・・・そういう貧困の循環が生まれてしまいます。 (7)

学校に通う子供たちを増やすことで、家庭内ではできない教育をする必要があるわけです。組織化された学校で、多くの子供たちを一カ所に集めて教育をおこなうことで、社会全体で見ると、効率的に教育をすることができます。また、学校で教育をおこなうことで、社会の中での生活ルールを身につけることもできます。

就学率(学校に通っている子供の割合)、さらに上級の学校 への進学率などをつかって教育水準を数値化することで、その社会全体の知的水準を測定することができます。

経済とか生活に結びつけた話しだけをする必要はないでしょう。たとえば、文字を読むことができれば小説を読んだり、評論を読むことができます。小説を読むことによって、自分には体験できない世界を知ることで、精神的に豊かになります。自分の知らない世界がどこかにあることを文字を通して知ることができるのとできないのとでは、大きなちがいがあります。評論を読むことで、自分には思いもよらぬ見方があることを知るのも、とてもすばらしいことです。いわゆる「役にたつこと」を勉強することだけが豊かさではありません。「役に立たないこと」をどれだけ身につけることができるかで豊かさが決まるといってもよいかもしれません。 8.40

日本の明治以降の近代化では、教育制度の充実に大変な力を入れました。西欧の学校制度を導入したほか、高い給料を払って外国の知識人を呼びました。江戸時代以前にも武士階級の学校や、庶民の寺子屋などがあり、日本の教育水準は高かったと言われていますが、その基盤を明治以降にさらに発展させ、組織化させたことが、明治以降の近代化のプロセスで大きな役割を果たしたことは疑いありません。現在の開発経済学でも、この日本の経験を研究する人たちが多いです。 9.5

平均寿命は、身体的・肉体的な潜在能力の指標です。長く生きること自体が重要というだけでなく、結果として長く生きることができる社会は、身体的に健康で衛生的な生活を送ることができる社会だという想定が背景にあります。身体的に不健康なときよりも、健康なときの方がチャンスを有効に利用することができます。10

個人の生き方を問題にしているわけではないことに注意しながら聞いてください。肉体的に虚弱であったり、障害があっても、すばらしい人生を送っている人もいますし、誰でも幸せになる社会が望ましいことも確かです。いま考えているのは、そういう個人の生き方の話しではないです。社会の豊かさです。衛生状態を良くし、できるだけ多くの人が身体的な健康を維持するような環境整備をすることに異論を挟む人はいないでしょう。

平均寿命に大きく関わるものに、幼児死亡率があります。生まれてすぐに生命を落としてしまう子供たちの割合です。食糧が不足していた場合はもちろん、病気が蔓延している社会では、必然的に抵抗力の弱い幼児(幼いこどもたち)の死亡率が高くなります。リクツ抜きに悲惨なことです。豊かな社会とは、悲惨さが少ない社会でもあるはずです。平均寿命を人間開発指数に盛り込むのは、潜在能力という以前にも必要なことでしょう。

11.5

数字で測る意味

さきほど新たな政策目標としてGDPに代わり人間開発指数が作られた、と言いました。開発の目的として経済面の豊かさだけを設定することは、それが中間目標だとしても望ましくない、GDPだけでなく、もっと広い目的を最初から設定しよう、というのが新しい開発の見方です。まず経済的なインフラ整備によって経済的な豊かさを実現し、その次に他の面での豊かさを実現する考え方が否定されたわけです。

さらに、古い開発思想の中でもう一つ否定されているのは、手段と目的との間にある単線的な関係、直線的な因果関係の連鎖です。(1)経済インフラの整備が経済的豊かさを実現する、(2)経済的豊かさは他の面での豊かさを実現するという単純な関係が否定された結果、開発のプロセスの中で考えなければいけないことは、互いに複雑に関係しあっており、それらの間にはお互いに一方が他方の原因でもあるし、結果でもあると考えられるようになりました。人間開発指数を高めることは、開発の目標でもあるし、手段にもなるわけです。13

このように考えたらからといって、方程式で開発プロセスを記述したり議論することを否定しているわけではありません。手段であり目的であるものの同士の複雑な関係を方程式で記述することができます。そもそも、人間開発指数という数値で表現しようとしているのですから、方程式とか数量で開発目標、プロセスを把握しようとしていることは大前提です。

数字や数量データで開発を考えることに抵抗をおぼえる人も多いかと思います。人間の複雑な感情や、どろどろした言葉にしにくいものこそ、開発プロセスで大事になる。いや、開発どころか、人間とか社会のことを考えるときに忘れてならないのは、そういうどろどろしたものであり、数字では絶対にそのことを理解することはできない。数量データで考えるような単純な発想ではいけないし、ましてや方程式で社会のことを記述するなんて、なんとも愚かなことではないか。・・・そんなふうに考える人は多いのではないでしょうか。 14.5

そういう批判は正しい批判だと思います。開発、あるいは経済一般のことを語るとき、わたしたちは人間のことを議論の対象にするのですから、安易に数量だけの議論ですべてをわかった気になるのは許されないことです。

しかし、数字の単純さ、数量データの単純さをきちんと理解した上で、積極的に数量データで語れる部分について、できるだけ良い状態、良い社会を作る努力をすることも、もっと重要です。数量データで把握できないことが多い、という批判をつづけるのは自由ですが、批判をするだけで何もしないよりは、数量データで把握できる部分だけでも、せめて良い方向に向かうよう、積極的に努力するべきだと私は思います。数量データについて語る経済学者、エコノミストの姿を見ると、その自信満々のようすばかりが強調されますが、私の考えでは、数量データでの議論に徹することは、自分には人間とか社会というものを総合的に把握するだけの人格的な準備とか、能力がないから、自分にできることだけ、すなわち数量データで把握できることだけに徹して、貢献したいという、良心的で謙虚な姿勢をもつことのあらわれだと思っています。

人間開発指数には盛り込まれていないものの中にも、開発プロセスの中で重要なものはたくさんあるに決まっています。GDP、教育水準、平均寿命以外にも考えなければいけないことはたくさんあるでしょう。16.5

とくに注意しなければならないのは、指数を見ることで、社会全体のことは理解できるけれども、その中の多様性は無視してしまっていることです。

たとえば、男女格差の問題を指摘することができます。社会全体では人間開発指数が大きくなっても、男女どちらかだけに有利な開発がおこなわれている可能性もあります。多くの国では男性優位の文化があり、開発の恩恵を男性だけが受け取っていることがあります。また、性別の格差以外の所得格差も多くの国・地域で観察できます。開発のプロセスを一部の人だけが受け取っており、多くの人が貧しいままでいる。そのようなことも多いです。17.5

人間開発指数を作っている国連機関では、人間開発指数の発表と一緒に、男女間の格差や、貧富の格差を考慮した別の指標も同時に発表しています。人間開発指数では把握できないものがあるから、別の指標も作って、多くの指標にバランスよく目を配りながら開発のありかたを考えようという姿勢です。18

どれだけ盛り込む要素を増やしても、抜け落ちる要素はあるはずだから、完全なものを最初から作ろうとするのではなく、これだけは大事と思う要素だけをきちんと把握できるような指数を作るべきです。人間開発指数は決して完全なものではありません。しかし、その単純さゆえに、多くの人の間で議論の機軸にすることができるのです。

人間開発指数のような数量データで開発の目的・手段を把握することは、多様な価値観が混ざり合っている社会では、とても重要なことです。わたしたちは言語をつかってコミュニケーションをしますが、言葉のつかいかたは、生まれたところ、育ったところ、家庭やまわりの環境によって驚くほど多様です。同じ言葉をつかっていても人によって、その言葉から受け取ることはちがいます。ましてや、ことなる言語をつかっている人とはコミュニケーションがむずかしくなります。

その点、数量データの意味は、通常の言語をつかっている場合よりも限定的で、ミス・コニュニケーション=誤解の余地が少なくなります。数字が意味することが単純であるがゆえに誤解を生む余地が少ないのです。

単純であることは、無視するものを作らなければいけないという意味でデメリットのあるものですが、それ以上にメリットがあると考えるべきです。 20

理論と実務

もちろん、開発の現場では、理論とか方程式に重きをおいていることはないでしょう。それもあたりまえのことです。現場で活躍している人たちは、教科書に書いてある知識よりも、自分や先輩・同僚たちの経験の蓄積にたより、臨機応変の判断をしながら、開発の仕事をすすめています。

理論とか方程式では説明できないことは日々おきており、それに対処しながら仕事をするのが開発の現場なのですから、教科書の知識がすぐにそのまま利用できるわけがありません。教科書に書いてあるとおりに仕事をしようとすると、開発に逆行することもあるでしょう。人間開発指数では開発がすすむとは言えないことをあえて実行しなければならない、という判断をすることもあるでしょう。物事に例外的なケースは必ずあるのです。1.10

理論が誤っているというわけではありません。理論で説明しようとしているのは、大きな流れとか、思考・考えの枠組みです。開発がどうあるべきかという考えにとっての「骨」だけという言い方ができます。肉は現場での経験でつけるものです。

骨だけでも肉だけでもイキモノは生きていくことができません。経済・社会というイキモノ、開発、開発のありかたというイキモノも同じです。骨だけ、肉だけでは生存できないし、片方だけをいくら知っても全体を理解することができません。開発の理論も、現場での経験の蓄積も両方大事です。人間開発指数に盛り込まれていること、盛り込まれていないこと、どちらも大事です。わたしたちが注意しなければならないのは、理論・現場の経験の両方をバランスよく知ることです。人間開発指数を見るときにも、それだけで開発を完璧にとらえたと思わず、人間開発指数を考えの中心におきながらも、常にそれぞれの事例の特殊性に配慮する必要があります。

また、理論なしでも、実際の生活経験を蓄積していくだけで生きていくことができる、という考えにも正しい面はありますが、理論を作り、それを残していく努力をすることが人間の人間たる所以ということも強調しておきたいです。23

「理論」という言葉の説明として、私は「先人の経験を体系化して後世に残す工夫のひとつ」という言い方をします。理論の素(素材)は経験です。苦労して何事かをなしとげたとき、人は誰でも自分の経験、先人の経験を後世に残しておきたいと考えるでしょ う。同じムダを繰り返すのではなく、自分がおかした過ちは避けて、自分より良い成果を出してもらいたいと願うからです。自分の 貢献が、後世の人たちに役立つと思うことで、誇りを感じるということもあるでしょう。

実際に経験した人とちがい、後世の人は先人の経験を文字通り共有することはなく、成果だけを理解することになります。「経験してみればわかる」という言い方をせず、「経験しなくてもわかるようなマニュアルつくり」の工夫をする必要があります。自分と同じ経験を繰り返すのなら、自分と同じようにムダを繰り返すことにつながるだけです。 24.5

多様な価値観、多様な環境で生活する人たち同士で、経験から得た知恵を共有するためには、その知恵が誰にとっても明確なものでなければいけません。言葉の意味、言っていることの意味ができるだけ限定されている必要があります。あいまいな言葉、人によって解釈の仕方が異なるような言説は、多くのもの同士で内容を共有することができません。先輩と後輩の間、先祖と子孫との間でも同じです。異なる人間同士で知恵を共有するためには、「経験すればわかる」という言い方ではなく、「経験しなくてもわかる言説」という形で知恵を保存しなければいけません。理論とはそのような意味での「知恵の固定化」の結果できたものです。理論と呼ばれているものは、生活感が除去され、無機化されたつまらぬものであることが多いです。それも、多様な価値観、多様な環境の者同士で知恵を共有するためには避けられないことなのです。

人間開発指数の単純さ、数量データで把握することへの抵抗感を感じる人には、以上のようなことを考えてもらいたいです。生活をするだけ、開発をするだけだったら、理論や指数は必要ありませんが、そういう意味で「役にたつこと」だけを追求するのは、文明の否定にほかなりません。経験しなければわからないことがあるのは当然ですが、経験することを過剰に強調すると、たとえば、戦争体験の悲惨さを後世に残すこともできなくなります。自分には経験できないこと、経験していないことも、ある程度までは理解し、感じることができるのが文明人の生き方です。

人間開発指数には限界もあります。そのことをきちんとわきまえた上で、自分のできる範囲でせいいっぱい努力することも、文明人の生き方ではないでしょうか。

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