イラク戦争前史 ― パレスチナ問題

慶應義塾大学 経済学部 延近 充

(1) イスラエルの建国と第1次中東戦争

1947年11月29日,国連総会は,英国によるパレスチナの委任統治終了期限を設定し,パレスチナをアラブ人国家・ユダヤ人国家・エルサレム国際管理地区に分割する決議案181を採択した。下の第1図は,決議181で示されたアラブ人国家とユダヤ人国家の領域を示している。
当時のパレスチナ地域の総人口は約200万人でアラブ人が2/3,ユダヤ人が1/3であったが,19世紀半ば頃にパレスチナ地方に住んでいたユダヤ教徒の人口比率は5〜7%と推計されている。
イギリスの植民地支配のもとで,ロスチャイルド一族らの援助によってユダヤ教徒のパレスチナ入植が行なわれ人口比率が上昇していったのである。パレスチナ人側はこの入植自体を「移民による侵略」と非難している。
決議案はユダヤ人に人口比以上の地域を配分するものであり,アラブ側は強く反対していたが,ユダヤ人機関の強力なロビー活動とアメリカを中心とする支援国の協力により決議案が採択された。
賛成は米ソを含む33カ国,反対は全アラブ諸国を含む13カ国,棄権はパレスチナの委任統治国イギリスを含む10カ国であった。ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺:「ホロコースト」に対する欧米キリスト教国の贖罪意識が決議案採択を後押ししたのかもしれない
ともかく,この国連総会決議181により,人口比率で1/3,土地面積の6%しか所有していなかったユダヤ人に,パレスチナ地域の56%が与えられることになったのである。
第1図 国連総会決議181で示されたアラブ人国家とユダヤ人国家の領域*
* ただし,第1図(および以下の第5図まで)は略図であり,地図内のそれぞれの領域は細部まで厳密なものではない。

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1948年5月14日に英国のパレスチナ委任統治が終了し,ユダヤ人は国連総会決議181を根拠としてイスラエルの建国を宣言した。パレスチナ・アラブ人とアラブ諸国は決議181に反対していたから,イスラエル建国を認めず,翌15日,アラブ諸国連合軍がパレスチナに進攻し,イスラエルとアラブ諸国との間で戦争となった。
この第1次中東戦争(パレスチナ戦争,アラブ側は「アル・ナクバ(大惨事)」,イスラエル側は「独立戦争」と呼称)は,国連の停戦勧告などにより1949年7月までにイスラエルとアラブ諸国家との間で停戦が成立した。
なお,停戦成立前の1949年5月11日には国連総会決議273*が採択され,イスラエルの国連加盟が承認されている。
この戦争の結果,ガザ地区はエジプト領になり,エルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区はトランスヨルダン領に編入された。この時に設定された境界線はグリーンラインと呼ばれ,その後ユダヤとアラブの境界線として国際的に認知されるようになった。エルサレムは,東側をヨルダンが,西側をイスラエルが領有し,中間地帯を国連が監視する非武装中立地帯とした。第2図に示したようにイスラエルの支配地域は拡大され,多数のパレスチナ・アラブ人が難民となった。
第2図 第1次中東戦争後のイスラエルの支配地域

(2) 第2次中東戦争と米ソの影響力の増大

1956年7月26日,エジプトのナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言した。ナギブ政権下で非同盟主義外交が進められていたが,やがて西側諸国との関係が悪化し,アスワン・ハイダムの建設のための融資がアメリカなどから拒否されるにいたって,ダム建設資金を確保する必要から採られた政策である。
これに対し,スエズ運河を確保したい英・仏と,アカバ湾と紅海をつなぐチラン海峡における自国船舶の自由航行権を確保したいイスラエルの利害が一致し,1956年10月29日にイスラエルがシナイ半島に侵攻を開始, 10月31日に英仏両軍がエジプト空軍基地を爆撃。11月5日にはイスラエルがガザ地区とシナイ半島を占領した。
英・仏の思惑とは異なり,アメリカは3カ国の行動を批判し即時全面撤退を要求した。これはエジプトが追い詰められてソ連の介入をもたらし,この地域でのソ連の影響力が拡大することを警戒したためと考えられる。
ソ連はエジプトとの友好関係から3カ国の軍事行動を批判したのは当然で,武力介入を通告し原爆使用もほのめかしたという。
国連安全保障理事会では英・仏が拒否権を行使したため,この問題は総会に付託された。緊急総会が11月1日から開かれ,11月2日に米ソが英の国連憲章違反を非難し軍の撤退を要求,国連総会で即時停戦と3カ国軍隊の撤退勧告決議が採択された。
6日に英仏は停戦決議を受諾し,12月22日には英・仏両国がエジプトからの撤退を完了した。イスラエルは1月にシナイ半島から撤退し,3月8日にはガザ地区からも撤退した。
この第2次中東戦争(スエズ戦争)の結果,中東地域における米ソ両国の影響力が強まった。また,軍事的には劣勢だったエジプトが米ソの支援によって英・仏・イスラエル軍を撤退に追い込んだことは,アラブ諸国ではエジプトの政治的勝利と受け取られ,1950年代後半からアラブ民族主義が中東地域で高揚していった。
同時に,この時期に世界で石炭から石油へのエネルギー転換が進み,石油化学産業が急速に発達していったため,この地域に存在する石油資源をめぐって,米ソ間の対立が中東情勢に大きく影響するようになっていったのである。

(3) 第3次中東戦争によるイスラエルの占領地域の拡大

1960年代に入ると,パレスチナ人によるイスラエルへの抵抗運動が強まっていった。
1964年5月,パレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization, PLO)が組織され, 1966年2月,シリアでクーデタによってPLO支持のアタシ政権が成立すると,ゴラン高原からイスラエル領内への砲撃が開始された。イスラエルは住民保護を理由として7月に空軍機を派遣してシリア軍と交戦するなど,アラブ諸国とイスラエルとの間の緊張が高まっていった。
1967年6月5日,イスラエル空軍機がエジプト・シリア・ヨルダン・イラク領空を侵犯し,各国の空軍基地を奇襲攻撃して制空権を確保した後,イスラエルは地上軍を侵攻させて,ヨルダン川西岸地区と東エルサレム,エジプト領ガザ地区とシナイ半島,シリア領ゴラン高原を占領した。
6月8日にヨルダンとエジプトが停戦,6月10日にシリアも停戦した。この第3次中東戦争(6日戦争)によって,イスラエルの占領地域は戦前の4倍以上に拡大したため,パレスチナ難民はさらに増大し,イスラエルとアラブ勢力との対立も深刻化した。
第3図は第3次中東戦争後のイスラエルの支配地域を示している。
第3図 第3次中東戦争後のイスラエルの支配地域
国連安保理は,1967年11月22日に,イスラエルが第3次中東戦争で占領した地域からの撤退とパレスチナ難民問題の解決などを要求する決議242を採択している。以後,この安保理決議242は,パレスチナにおいて紛争が起きた時の国連決議において確認すべき原則として常に言及される決議となる。
もちろん,この決議がイスラエル軍の撤退を要求している地域は第1次中東戦争でイスラエルが占領した地域以外の地域であって,1947年の国連決議で設定されたユダヤ人国家の領域に復帰することを求めるものではない。

(4) 資本主義戦後体制の動揺と第4次中東戦争・第1次石油危機

アメリカは冷戦戦略の実行によって1950年代末以降,経済的には相対的に衰退しつつあったが,ベトナム戦争への本格的介入が経済的衰退を決定的なものとした。1971年8月15日,ニクソン大統領が新経済政策を発表し,金とドルとの交換停止を一方的に宣言した(ニクソン・ショック)。
同年12月18日の10カ国蔵相会議で合意された多国間通貨調整(金1オンス=38ドルへドル切り下げ,黒字国の通貨切り上げ等,スミソニアン合意)を経て,各国は次々に変動相場制に移行した。戦後の西側諸国の経済復興と成長の枠組みであったIMF体制(金とドルとの交換によるドルへの信認・固定相場制)は崩壊し,先進資本主義経済は混沌の時代に入る。資本主義戦後体制と冷戦との関係については「冷戦とアメリカ経済」をご覧ください。
1973年10月6日,エジプトはシリアとともにイスラエルを攻撃し,第4次中東戦争が始まった。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は,これに呼応してイスラエル支援国への原油輸出の停止や制限措置をとり,また同時期に石油輸出国機構(OPEC)が原油価格の大幅引き上げを行なったため,先進工業国は深刻な打撃を受けた。
これらによって,西側先進国経済は,1970年代を通じて長期的な停滞とインフレーションが並存する状態に陥った。

(5) 第4次中東戦争後のエジプトの親米・イスラエル容認路線への転換

1970年にナセル大統領の死後に就任したサダト大統領は,ナセル政権期の社会主義的政策を転換して自由化を推進し,イスラム復興主義運動も解禁した。さらに第4次中東戦争後,アメリカに接近し反イスラエル路線を転換して,和平路線を採る。
1978年9月に,アメリカ・メリーランドの大統領山荘キャンプ・デービッドでカーター米大統領,エジプトのサダト大統領,イスラエルのベギン首相が会談し,エジプト・イスラエル間の平和条約の締結交渉の開始,シナイ半島からのイスラエルの撤退とエジプトへの返還,パレスチナ人統治問題の協議開始についての合意が成立した。
この結果,1979年3月26日に,サダト大統領とベギン首相がエジプト・イスラエル平和条約に調印し,1982年4月25日にはイスラエル軍のシナイ半島からの撤退が完了し,シナイ半島はエジプトに返還された。第4図はシナイ半島返還後のイスラエルの支配領域を示している。
サダト大統領とベギン首相は1978年のノーベル平和賞を受賞したが,1981年10月6日,サダト大統領は第4次中東戦争の戦勝記念日のパレード観閲中,イスラム復興主義のジハード団に所属する兵士が手榴弾を投げ,銃を乱射して殺害された。サダト大統領の死後,副大統領のムバラクが大統領に就任したが,ムバラク政権でも基本的に親米・イスラエル容認路線が継続されている。
第4図 シナイ半島返還後のイスラエルの支配地域

(6) オスロ合意とパレスチナ暫定自治区の創設

パレスチナにおいては,1987年12月9日,ガザ地区でイスラエル人のトラックがパレスチナ人のバンに衝突し4人の死亡者が出たことを直接のきっかけとして,インティファーダ(民衆蜂起)が始まり,イスラエルのパレスチナ占領地全域に拡大した。パレスチナ人の若者を中心として,イスラエル軍に対する投石などによって反占領・反イスラエルの意思表示をする抵抗運動である。イスラエル軍は投石に対して小火器などによる発砲で応戦し,パレスチナ人1500人以上が死亡した。この年にはハマスが結成されている。
その後,ノルウェー政府の仲介によりイスラエルとPLOの秘密裡の交渉が行なわれ,1993年9月20日,ノルウェーのオスロでイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が「暫定自治政府原則の宣言(Declaration of Principles on Interim Self-Government Arrangements)」に合意・署名した(オスロ合意)。ヨルダン川西岸地区とガザ地区からイスラエル軍が撤退してパレスチナ暫定自治区を設定し,パレスチナ暫定自治政府が創設されることになった。
この合意により,ヨルダン川西岸地区とガザ地区からイスラエル軍が撤退してパレスチナ暫定自治区を設定し,パレスチナ暫定自治政府が創設されることになった。第5図はオスロ合意後のイスラエルの支配領域とパレスチナ暫定自治区を示している。
ラビン首相は95年11月4日,テルアビブでの平和集会に出席中に,和平反対派のユダヤ人青年に銃撃され死亡した。
しかし,ヨルダン川西岸地区からのイスラエル軍の撤退は,現在に至るまで一部しか実行されず,むしろ自治区内のイスラエル人入植地が拡張されていき,パレスチナ自治区は何カ所にも分断されている。
第5図 オスロ合意後のイスラエルの支配地域とパレスチナ暫定自治区
(未完)
(2006年11月3日執筆,2009年1月31日全面的な修正と記述を追加して公表)
2011年5月19日,オバマ米大統領が中東政策について演説し,イスラエルとパレスチナとの「2国家共存」による和平実現のために1967年の第3次中東戦争以前の境界線を基礎として交渉を進めることを提唱した。これは,歴代のアメリカ大統領として初めて,第3次中東戦争後のイスラエルの占領地からの撤退を事実上要求する内容となっている点で画期的といえる。もちろん上記のように,国連安保理は,第3次中東戦争後の1967年11月22日に,すでにイスラエルが第3次中東戦争で占領した地域(ヨルダン川西岸地区と東エルサレム,エジプト領ガザ地区とシナイ半島,シリア領ゴラン高原)からの撤退とパレスチナ難民問題の解決などを要求する決議242を採択済みであり,アメリカがようやくこの決議の求めるラインを和平交渉の出発点に設定したに過ぎないのではあるが。

さらに,もしイスラエルがそれらの占領地(シナイ半島は1979年のエジプト・イスラエル平和条約でエジプトに返還,ヨルダン川西岸地区とガザ地区については1993年のオスロ合意でパレスチナ自治区とすることで合意)から撤退しても,イスラエルの支配地域は,1947年11月の国連総会決議181(通称パレスチナ分割決議)で認められたユダヤ人地域よりも広い1948年5月の第1次中東戦争後の範囲に縮小されるだけである。第1次中東戦争後のユダヤ人地域とアラブ人地域との境界線はグリーンラインと呼ばれ,国際的に認知されるようになったのではあるが,国連決議のような明確な国際法的根拠に基づくものではない。

とはいえ,2004年に当時のブッシュ米大統領がイスラエルに対して,1967年以前の境界へのイスラエルの撤退は「非現実的」であり,和平交渉は「新しい現実を基礎におく」ことを認めなければならないとの書簡を送っていたことに比べて,オバマ大統領が和平交渉の基礎としてのイスラエルの撤退をどの程度現実化していく意思と交渉手段を持っているのかは現時点で不明であるが,アメリカの政策方針の転換を明確に示したものとして重要な意味を持つ。
このようなオバマ演説に対して,イスラエルのネタニヤフ首相は,ヨルダン川西岸地区などからの撤退はイスラエルの安全保障を脆弱化するとして反発している。
(2011年5月20日追記)

パレスチナ問題に関する事実やデータは,主として Palestinian Academic Society for the Study of International Affairs (PASSIA) の資料を参照した。

イラク戦争にかんするわたしの分析視角やイラク情勢の具体的事実などについて,より詳しくは共同研究「イラク戦争を考える」をご覧ください。

また,2008年12月末からのイスラエルによるガザ地区攻撃に関するデータ,および“対テロ戦争”に関する私の考え方については,「Collateral Damage ― “対テロ戦争 War on Terror”の非人間性」をご覧ください。

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