平成23年7月5日 福祉のまちづくり学会情報障害特別研究委員会平成23年度第1回勉強会

「災害時の視覚障害者支援の現状と課題」

=東日本大震災被災地「釜石市」の避難所回りから見えてきたこと=


東京都盲人福祉協会 山本 和典


1.はじめに

 2011年3月11日の東日本大震災後、被災地の視覚障害者の支援等をおこなうために、視覚障害者関連団体が連携し、日本盲人福祉委員会内に「東日本大震災視覚障害者対策本部」(http://homepege2.nifty.com/welblind/aq2011/aq2011.html)を立ち上げた。そして、対策本部は3月下旬から宮城・岩手の被災地にコーディネーターを派遣し、調査・支援を開始した。本報告では、被災地の視覚障害者支援の現状について現地スタッフとして4月13日から17日まで「釜石市」の避難所50数ヶ所を訪問して実施した支援実践を交えながら、報告する。また、「災害時における視覚障害者に対する支援の現状と課題」について問題提起をおこなう。

2.活動内容

 4月13日に現地入りし、同行したコーディネーターから「避難所回り」のレクチャーを受けながら数ヶ所の釜石市内の避難所を回る。翌日、新たなメンバーと合流し、岩手県内の被災地である「大船渡市」「陸前高田市」の被災の現状を確認した後、主な活動場所である「釜石市」に入り、新たなメンバーと共に活動をスタートする。活動にあたって、事前に被災の様子を知っておくことは、とても大切なことであったように思う。拠点となった宿泊地は釜石市の西隣に位置する「遠野市」が、支援ボランティアのために格安で開放していた「地域コミュニティー防災センター」である。

 活動は、釜石市の「対策本部」で手に入れた最新の避難所リストを元に(自治体は、情報提供には大変消極的であり、この段階では避難所リストを元にした避難所回りが支援の唯一の手がかりだった)、レンタカー2台にメンバー2人がそれぞれ同乗して(別組は大船渡市担当)、おこなった。各車には「災害支援」「東日本大震災視覚障害者対策本部」などの貼り紙をし、各メンバーは裏に各自の名刺を入れたネームプレートを首から下げた。持参したものは、「生活支援ニュース」(避難所向けに厚労省が発行した刊行物で本活動の本部の連絡先などが記入してある)、白杖、キーホルダータイプの音声時計、乾電池式携帯電話充電器などである。

 17日までに釜石市内の約60ヶ所の避難所を回り、2人の視覚障害者と出会い支援をおこなった。避難所近くで一人暮らしをしている1名にも会うことが出来た。また、「数日前までいた」という避難所も数ヶ所あった。他にひとりの避難所での所在は確認出来たが、当日は避難所にはおらず、後日の再訪問となった。

 その後、引き続き新たなメンバーが「陸前高田市」「大槌町」などでの活動を継続した。

3.避難所の回り方

 避難所に着いたら、まず避難所の責任者を尋ねて(ネームプレートを見せながらの自己紹介と訪問の目的などを伝えた上で)会わせてもらう。決していきなり避難所へ入り込み声を出すようなことはしない。その場所が避難されている方々の「生活の場」であることを忘れてはいけない。

 責任者に会ったら、再度自己紹介・訪問の目的などを伝え、「視覚障害者は避難していますか?」と尋ねる。「いない」との答えの場合は、持参した「生活支援ニュース」を渡し、もしそのような人がいた場合には岩手の本部に電話するよう伝える。「いる」との答えの場合も、まずはその責任者から本人に対して「このような人が来ているが、会いますか?」と聞いてもらい、本人が「会う」と言った場合に初めて対面し、具体的な支援につなげる。対面する場所も、避難所の中の場合と、避難所から出た所の場合があった。このような「慎重さ」や「本人の意志の尊重」は、プライバシー保護などの観点から必要不可欠と言える。特に今回「見た目のインパクト」が非常に強く、被災もひどかった「陸前高田市」の避難所などでは、被災地やその避難所へ「海外も含めたメディア」の取材も多かったようで、外部の人間に対しては結果的に非常に神経質になっているとのことだった。これは無神経な取材などがもたらした結果であろう。

4.会う事ができた視覚障害者に対する支援内容

4.1 「O小学校体育館」に避難中のSさん

4.1.1 パーソナル・データ

4.1.2 被災時と避難後の状況

 大槌町の自宅にて祖父と2人で在宅中に被災。避難指示があったが、高齢の祖父と視覚障害の本人とでは高台に避難することが出来ず、自宅に待機している以外になかった。近隣の知人が自宅に車で来て支援してくれたので、高台に避難することが出来た…。「来てくれなかったら間違いなく祖父と2人共々津波に流されていただろう」と話していた。住まい2棟、倉庫1棟が流され全く何も残っていない。最初に入った避難所への避難後3日目で、今の避難所へ移動指示があった。避難所内での移動などにようやく慣れたばかり(環境への適応直後)だったので、とても大変だったが、今はこの避難所での暮らしにも慣れた。障害者手帳の再交付の申請を終えたところである。

4.1.3 今後の見通しについて

 3日後に、北上市(釜石市の西約50q)に転居し、自宅療養を続ける。転居後は弟と2人で暮らす予定。転居先は通院予定の病院のすぐそばである。

4.1.4 支援内容

4.2「Sセンター」に避難中のKさん

4.2.1 パーソナル・データ

4.2.2 災害時と避難後の状況

 震災当日は健常者の夫と自宅に在宅。夫と2人で高台に向け避難のために移動中に津波に襲われる…。体が津波に持って行かれそうになるが、夫が引っ張り上げてくれたので何とか助かった…。その後、全身ずぶ濡れの状態で2時間以上歩いてようやくこの避難所にたどり着いた。自宅は流され何ひとつ残っていない。被災直後は、悲しくて何度も避難所に面した高台から飛び降りようとしたが、その度に夫から叱られて思いとどまった…。避難所での生活そのもの(衣食住)には特に困っていることは無い。

4.2.3 今後の見通しについて

 仮設住宅の申し込みをしているが、入居の目処はまったく立っていない。いつまでこの避難生活が続くのか?もわからない…。

4.2.4 支援内容

5.望ましい災害時の視覚障害者に対する支援とは?

 今活動を通じて見えてきた、今後の「あるべき支援」を考察する。

6.第2陣の活動について

 6月6日から8日まで、第2陣の支援が岩手県内で実施され、その活動にも参加した。その活動では、「大槌町」「山田町」「釜石市」で再度支援活動をおこなった。前回と違い、県視障協などからの情報提供もあり、電話でのみの対応も含めて合計17名の視覚障害者に対しての支援および安否確認が出来た。4名の方は既に仮設住宅に入居されていた。その活動からは、「前回の支援が有効であったこと」「ニーズの変化などに伴う引き続きの支援が必要なこと」などを実感した。

7.最後に

 今回の震災で何組かの視覚障害者同士の夫婦が亡くなった事実がある…。同様に多くの災害弱者(障害者や高齢者など)が亡くなったのは、ほぼ間違いのないことであろう。視覚からの情報に何らかの制約がある視覚障害者の場合、被災時の避難行動や必要な救命活動を受けることなどはもとより、避難後の生活に至るまで適切な支援は欠かせない。それは、「命を守るために」欠かせないとも言えるであろう。そのためには、まずは災害時における「災害弱者の確実な避難」に向けて、各地域でその支援体制を整える努力をすることが必要である。


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