こころリソースブック編集会(編):ATACカンファレンス2000 テキスト「視点は始点」. 

視覚障害を理解するための疑似体験セミナー

 

中野泰志(慶應義塾大学)

e-mail : nakanoy@hc.cc.keio.ac.jp

HomePage : <http://www.econ.keio.ac.jp/staff/nakanoy>

金沢真理(東京都盲人福祉協会)

 

1 はじめに

 視覚の最も重要な働きは、目の前にある物や人や環境等の特徴を瞬時にして、しかも、いちいち触ることもなく確認できることです。例えば、目の前の人が誰であるか、その人がどんな顔をしているのか、笑っているのか、怒っているのか、その人が手にもっているものが何であるか、それは食べられそうなものであるかどうか、その人と握手をするためには何歩ぐらい歩けばよいのか、一緒に外に行くためにはどの方向に進めばよいのか、庭にある夾竹桃に花が咲いているかどうか、銀杏の木にはギンナンが実っているかどうか、等など。視覚の働きは、これらの事象を瞬時にして確認できることなのです。

 さて、視覚に障害を受けると上述のような事象を別の感覚や知識等を利用して確認することになります。例えば、声を頼りに目の前の人が誰であるかを知ったり、言葉で顔の特徴を説明してもらってどんな顔かを想像したりすればよいというわけです。きっと出来ないことは何もないはずです。しかし、視覚から情報をつかむことと比べると手間がかかりますし、面倒でもあります。周りの風景を始終説明してもらうのは少し気がひけてしまうだろうし、いちいち相手の顔の表情を尋ねることも面倒だと思います。視覚障害の不便さはこの点にあります。特に、人間のコミュニケーションは顔の表情や身ぶり等、言葉以外の要因に随分と助けられています。そのため、言葉が自由に使いこなせてもコミュニケーションがスムーズに行えない場合がでてきます。このセッションでは、視覚障害をもつ人が遭遇している不便さを共感的に理解したり、その不便さの原因を考えたり、その不便さを軽減するための道具や方法について紹介したりします。

 視覚に障害をもったときの感じ方は、言葉で説明されただけでは想像するのが困難です。全く見えない全盲状態のことは目をつぶってしまえばわかる? はたしてそうでしょうか? また、ロービジョン(弱視)と呼ばれている、全く見えないわけではないけれども視覚から情報を受け取るのが不自由な場合の不便さは想像しにくいはずです。そこで、このセッションでは、全盲状態とロービジョンの見え方をシミュレーションを使って疑似的に体験しようと思います。全盲状態はアイマスクで、またロービジョン状態は特別なゴーグルを使って(視力が低い状態だけでなく、まぶしくて見えにくい状態、視野が狭い状態等、ロービジョンのいろいろな見え方が体験できます)体験していただきます。さらに、単なる体験に終わらないように、各ツアーのガイド役には視覚障害の人についていただきます。視覚障害の人にガイドになってもらいながら、食事をしたり、いろいろな支援機器を実際に使ったりしながら、視覚障害の不便さ・不自由さを実感したり、どうすれば楽に行動できるかを理解したいと思います。

 なお、疑似体験はあくまで疑似的な体験であり、障害者が遭遇している困難を同じように体験できるわけではありません。しかし、体験を通して、見えにくくて困るとはどういうことかを垣間みることはできます。本セッションでは、疑似体験の限界を絶えず確認しつつ、体験をきっかけにして自分たちの日頃の支援活動を振り返ってみたいと思います。

図1 ボヤケによる見えにくさとその補償方法(中野泰志・小田浩一・中野喜美子, 1993, 弱視児の見えにくさを考慮した読書環境の整備について, 国立特殊教育総合研究所・特別研究「心身障害児の感覚・運動機能の改善および向上に関する研究」最終報告書, pp.45-55.)

図2 まぶしさによる見えにくさとその補償方法ー透光体混濁の例ー(中野泰志・小田浩一・中野喜美子, 1993, 弱視児の見えにくさを考慮した読書環境の整備について, 国立特殊教育総合研究所・特別研究「心身障害児の感覚・運動機能の改善および向上に関する研究」最終報告書, pp.45-55.)

図4 視野の中心が見えない見えにくさとその補償方法(中野泰志・小田浩一・中野喜美子, 1993, 弱視児の見えにくさを考慮した読書環境の整備について, 国立特殊教育総合研究所・特別研究「心身障害児の感覚・運動機能の改善および向上に関する研究」最終報告書, pp.45-55.)

2 障害者にとっての心地良い支援とは?

 視覚障害者が支援を受けようとした時、受けたいと思った支援が受けられないことがよくあります。これは、障害者が欲している内容に即した支援が提供されず、支援者の考え方や枠組みで一方的にサービスを提供しようとする場合に起こってくることです。先日、次のようなことがありました。

 ホームで声をかけられて、「ご一緒しましょう」と言われ、急行電車に乗ろうとした時、「混むから各駅で行きましょう」と言われ驚いたことがありました。私は、急いでいたので急行に乗りたかったのです。「急いでいますので」と言ったにも関わらず、「座れないから」と言われ、断念したことがあります。

 疲れて座って行きたい時もあれば、急いで急行に乗って行きたい時もあります。ほとんどの場合いは「急行がきましたが乗りますか」と尋ねてくれますが、今回はサービスを受ける側の都合を優先させてもらえなかったのです。どういう支援を受けたいかはさまざまです。個々に望まれていることに答えていかれる支援であって欲しいと思います。

 

3 支援者の立場について

 障害者が町に出かけて行った時、すべての人々が声をかけてくれる支援者ではありません。それどころか、邪魔扱いされたり、迷惑がられたりすることさえあります。故意にそういうことをしていることもあるかもしれませんが、多くの支援者の気持ちは違います。先の例で「混むから各駅で行きましょう」と声をかけてくれた人も善意をもった支援者です。知らない人、特に障害者に声をかけるということ事態、勇気がいることです。「混むから各駅で行きましょう」「座れないから」という提案も良かれと思って言ったに違いありません。視覚障害者が混でる電車に乗るのは危ないから、座ってもらわなくてはと思い込んでいたのかもしれません。あるいは、支援者も一緒に座りたかったのかもしれません。いずれにしても「悪気」があってのことではなく、「善意」から出てきた行動であることに間違いないと思います。

 障害者から「専門家なのに、ちっとも気持ちをわかってくれない」という不満を聞くことも少なくありません。でも、専門家だからと言って、他人の気持ちがそう簡単にわかるはずがありません。障害者からすると、専門家なのだから「障害者の気持ち」がわかるはずとこれも思い込んでいるのかもしれません。他人の気持ちがそう簡単にわからないのはどんな立場の人も同じだと思います。大切なのは、相手の立場で考えようとする態度なのだと思います。

 

4 コミュニケーションの重要性

 先の話で「ご一緒しましょう」と声をかけてくれた人には「善意」があったにも関わらず、急いでいた私は、結果として、急行に乗ることを「断念」することになりました。なぜ、善意があるにも関わらず、こういうことが起こるのでしょうか。その原因の一つとして、相手の状況や立場を知ろうと努力せずに、自分の観点で物事を考え、行動してしまうことが考えられます。これは、支援者にだけ言えることではありません。支援を受ける側(被支援者)も自分が欲していることをわかりやすく相手に伝えていく必要があります。例えば、先の電車の件でいうと、私はせっかく声をかけてもらったので、急行に乗らないで「断念」することを選択しました。「急いでいるので」の一言しか言いませんでした。しかし、よい支援関係とは、支援者と被支援者の相互の十分なコミュニケーションによって生まれるものだと思います。私がもし、「急いでいるので、急行に乗りますけど、ドアまで行ってもらえますか。あとは慣れていますので大丈夫です」とつけ加えていたなら、急行に乗ることを「断念」せずに、声をかけてくれた人と安全にドアまで行くことができ、お互いの目的も果たせたはずです。つまり、支援を考える時には、どちらかが快適なのではなく、双方が快適であれるように、相互にコミュニケーションを取る必要があります。そうするためには、お互いが相手の立場や状況を知ろうとする努力、つまり、相手に対する共感性や感受性を高めていく必要があります。サービスはユーザーと支援者で成り立っているものです。このコミュニケーションの不足を解消していくことがより良い関係を作っていくことになるのだと思います。

 カウンセリングの領域で二人の対人関係を示す興味深い理論があります。ジョハリの窓という考え方です。これは「対人関係における気づきのグラフ式モデル」(Joe Luft & Harry Ingham, 1955)で、お互いにわかっている「開放」の領域が大きいほど二人の関係はよいということになります。これを障害のある人と支援する人との関係で捉えてみましょう。自分の障害のことは自分が一番知っているのでしょうか? ジョハリの窓の考え方から言うとノーです。誰だって自分で気づいていないこと、すなわち盲点があるわけです。支援者とよりよい関係を形成するには、障害がある人は自分の盲点を支援者からフィードバックしてもらう必要があります。また、障害のある人は「健常な人にはいくら説明しても理解してもらえない」とあきらめないで、今まで知らせていなかったことを、必要に応じて、自分のプライバシーの倉の中から出していくこと(自己開示;self-disclosure)も大切です。そうすれば、支援者との対人関係が快適なものにでき、結果としていい支援が受けられることになるはずです。

ジョハリの窓

障害のある人を中心に見たときのジョハリの窓

支援する人を中心に見たときのジョハリの窓 

 

5 視覚障害の見え方と疑似体験

 健常な人が視覚障害の感じ方を理解するのはなかなか困難なことだと思います。例えば、目を使えないくらいだったら生きていてもしょうがないと考える人は少なくないはずです。確かに、突然の失明は大きな喪失ですが、工夫次第でほとんどのことが可能です。

 日常生活においてある程度、視覚を活用できるロービジョンは全盲の状態よりも楽なのでしょうか? 必ずしもそうとは言えない場合もあります。ロービジョンの理解を最も困難にしているのは、その見え方を把握するのが難しい点にあります。そのため、十把ひとからげにされたり、逆に、多様で捉えどころがないものとして扱われてきたように思われます。白杖を利用していても活字を読んでいたり、白杖は使用していなくても活字は読めないという不思議なことが起こります。また、照明を明るくしてもらっても、明るすぎてかえって見にくくなってしまったり、文字が大きければ読めると思われて見せられても、大きすぎて読めないこともあります。眼のどこを使っているのか、視野はどの程度なのか、まぶしさはどの程度感じているのかなどによっても必要とされるケアはまちまちです(図2)。ロービジョンの見え方は多様ですが、まったく漠然と考えられているわけではありません。最近の研究では、ロービジョンの見え方は、次の4つに分類されています(図3;中野ら, 1993)。すなわち、(1)像がぼやけてはっきり見えない、(2)余分な光のために見えにくい(まぶしい/薄くて見えにくい)、(3)視野が狭い、(4)視線を向けているところがよく見えないの4つです。それぞれのロービジョンの人の見え方が多様なのは、この4つの見え方の程度が異なっていたり、4つの見え方が組合わさっているからだと解釈されています。見え方が整理できれば、それぞれの見え方に応じて支援技術を開発することができます。例えば、まぶしさがある場合、原因と考えられる余分な光を減らすための工夫として、遮光眼鏡や白黒反転等を利用すればいいのです。このような見え方の理解を促進するための手段としての疑似体験でもあります。このようにロービジョンの見え方に関する研究や見え方と支援技術の関係(メカニズム)を明らかにする研究の成果が疑似体験の理論的基礎となっています。

 

6 疑似体験の意義

 視覚障害の人達へのケアは、知識としては理解できても、その重要性を実感するのは容易ではありません。ロービジョンの人がケアを受けた時の例を考えてみました。

 これらの不便さやその対策は、知識としては理解できると思います。しかし、問題に直面していない人には、あまり実感がないと思います。疑似体験の一つのねらいは、これらの知識やノウハウを追体験することにより実感することです。

 医療スタッフにロービジョン疑似体験で視力検査をやっていただいたときに『患者さんが一所懸命見ようとして、顔の向きを変えながら「もう少し待って、見えそうだから」と言っておられたときの気持ちがわかったような気がする』という主旨の感想がありました。また、『照明等を工夫して見えたときってうれしいんですね』という主旨の感想もありました。そして、この疑似体験に参加された多くの医療スタッフの方が『明日から検査のときの心構えが変わる』との感想を残されました。

 ソクラテス哲学の権威である林竹二氏は「学ぶことは変わることである」という言葉を残されましたが、疑似体験は支援者のケアに対する態度を「変える」上で大きな役割を果たすと思われます。体験を通して実感することで、知識や技術や理論はより意味をもってきます。疑似体験の必要性はここにあります。私達は、疑似体験の意義を以下の3つの観点で捉えています。

  1. 視覚障害の人達が遭遇している不便さやそのときの心理を理解する手がかりを得ること
  2. 視覚障害者へのケアやサービスに関する知識、技術、理論の意義を共感的に理解する手がかりを得ること
  3. 新しい技術や課題等を発見するための手がかりを得ること

 

7 疑似体験ツアー

 ユーザーにとって、支援機器に対する期待はとても大きいものがあります。視覚障害になると、実際に困難なことがたくさん起こります。また、目を使って確認していた人にとって、見えなければいろいろなことが出来なくなるという思い込みがあるために、絶望的になったりします。でも、ちょっとした工夫をしたり、道具を使うことにより、解決の糸口を見いだすことができます。工夫をしたり道具を使うことで、生活がより快適になったり、できないと思われていたことができるようになったりしながら、自立の一歩を実感することができます。見やすい工夫がしてあったり、触ってわかるようになっている道具もたくさんありますし、ちょっとした工夫で市販品を活用できるようになったりもします。会場には、視覚障害者にも便利に使える様々な支援機器が展示してあります。これらの機器の配慮点や使い方をみんなで試してみませんか! また、視覚障害の人のガイドで食事に出かけてみませんか! 視覚障害をもつユーザからちょっとした工夫の仕方を聞いたり、便利な道具を紹介してもらいながら、その便利さや改良すべき点を実感してみましょう。また、企業の機器展示会場にも出かけてみましょう! 「この機器は運動障害のある人のために開発されたものだから、視覚障害に対する配慮はしていません・・・」という言い訳は通用しません。というのは、運動障害と視覚障害を併せもっている人にもやさしい機器であって欲しいからです。

 障害が重ければ重いほど、自分のもっている感覚・機能を最大限に活用し、どん欲に生活を楽しみたいものです。会場には、便利な用具が展示されています。これらの用具は、こころWEB(http://www.ibm.co.jp/kokoroweb/main/)や視覚障害リソース・ネットワーク(http://www.twcu.ac.jp/~k-oda/VIRN/)等のホームページ、小売店のカタログ(ジオム社 電話:06-463-2104、日本点字図書館 電話:03-3209-0751、日本盲人会連合 電話:03-3200-0011、東京ヘレンケラー協会 電話:03-3200-1310)等に紹介されていますが、実際に触って、どんな風に使えるかを確かめてみませんか! また、道具の紹介だけでなく、どんな工夫をすれば生活が豊かになるか、一緒に考えていきましょう!

 

8 疑似体験からユニバーサル・デザインへ

 障害を受けると、まず訓練をして、社会に適応するように努力をしていくことが望ましいとされて来ました。また、障害があるのだから、誰からも好かれるように努力しなさいと言われて来ました。ところが、福祉に対する考え方が少しずつ変化してきました。つまり、社会そのものも障害者を受け入れられるような環境にしていこうと言うのです。障害者だけが努力するのではなく、社会も障害者を支援していこうという考え方です。WHOの新しい障害観が示されたICIDH2(International Classification of Impairments, Activities, and Participation -A Manual of Dimensions of Disablement and Functioning)は、その代表的な例だと思います(http://www.who.int/icidh/、日本語;http://www.dinf.ne.jp/doc/ntl/icidh/index.html)。障害者の不便さや不自由さを環境の整備、道具の活用や支援技術を開発し、それを活用していこうというサービスの提供を考えています。こういう考え方から、バリアフリーの社会、誰もが使いやすい物の開発をめざしたユニバーサル・デザインが注目を浴びてきたのだと思われます。

 こうして考えると、ユーザーの求めているより質の高いサービスを考えていく必要があります。いわゆる誰もが使えることのできるユニバーサルデザインを考えると、固定概念や思い込みで作られてしまったらどうでしょう。ユーザーのために作られたものでも多くのユーザーに使われないということが起こってしまいます。「点字」さえつけておけば視覚障害者に配慮されたものとして片づけられてしまうことがよくあります。例えば、駅の券売機で切符を買うときの困り方を考えてみましょう。視覚障害者にとって多くの券売機は使い勝手の悪いものです。ですが、多くの券売機には点字が張ってあります。したがって、券売機で最も不自由をするのは、点字は読めないが、料金表示を見るのには苦労するという人達なわけです。つまり、障害(ディスアビリティ)は状況との関係で決まるものなのです。「点字」が付いていても視覚障害者の一部の人にとっては、利用しやすくなっていても多くの視覚障害者に取っては利用しやすくなっているわけではありません。しかし、点字ではなく、それが一種の区別を付ける物の印として考えたらどうでしょう。

 視覚障害者に取って使い安い共用品として最初に開発された物の一つにシャンプー&リンスがあります。同じ形のボトルの区別がつかないと言う声から生まれたものです。シャンプーには側面にポツポツが付いていてボトルを触るとシャンプーとわかるようになりました。何も付いていないのがリンスです。これは、視覚障害者だけではなく、多くの人に取って便利になったものだと思います(共用品推進機構;http://kyoyohin.org/)。

 この疑似体験を通して、こころのバリアを解放してみてください。この体験は視覚障害を理解していくためのものだけではなく、人を理解していくためのものでもあると思います。ですから、疑似体験は人を理解していくための感受性や共感性を高めていく一つのトレーニングの場でもあります。さらに、疑似体験を通して、正しい評価のもと、不便さや不自由さを実感し、感受性や共感性を高めていくことがバリアフリーやユニバーサル・デザイン等に向け、「人にやさしい社会」とはどんなものかを考えていきたいと思います。