「情報処理入門」を履修しようと考えている諸君へ

 情報処理入門というウンザリする講義を担当しはじめてから、もう何年になるだろうか。「情報処理」などというもっともらしい名称でありながら、その実態といえばたかが「パソコンにおけるワープロ・表計算ソフトの使い方」。そんな情けないものを手取り足取り教えてやったあげくに、二単位もくれてやらなければならない。少なくとも私が最初に担当するときにはそうだったのである。

 学生からしてみればこんなオイシイ話はない。ほとんど何もせずに二単位が向こうから転がり込んでこんでくるのだから…。初心者向けということで優しい先生が課す簡単なレポートを二、三本やるだけで二単位。頭も何も使わずに二単位なのである。そしてそういう優しい授業を受けたから「パソコン」とやらが使えるようになるかと言えばそうではない。そんなアホな話があってよいものだろうか。入学して最初の年にある科目がこんな体たらくでいいはずはないのだ。

 大学に入ってきた最初の年というのは大事な期間なのだと私は考えている。経済学部には、経済学を勉強したくて入ってきた学生もいれば、たまたま入試で受かってしまったから入った学生もいる。この学部に入ってラッキーだと喜んでいる子もいれば、不本意ながら在籍している子もいる。そういうさまざまな思いで在籍している学生ではあるが、ともかくせっかくこの経済学部に入ったのだから、入ってきた学生みんなに経済学のおもしろさを少しでも味わって卒業していって欲しいのである。

 しかし現状ではどうか。学生が書いてくるレポートをみていると、経済学のおもしろさを本当に少しでも味わっているかどうか疑わしく感じることが多い。たとえば、経済学者が、現在の経済状況に対して一般向けに解説したような本の内容を切り貼りしたとしか思えないものがよくある。もちろん誰かの書いた解説本を切り貼りすれば、イッパシの経済学者が書いたものと似たようなことを言っているレポートは書ける。しかしそんなもの、どこがおもしろいのだろうか。しかしそれが一体どういうことを言っていて、なぜそういうことが言えるのか、そういうことが言える根拠は一体なんなのか…それらを自分の頭で消化し、理解しきってそういうレポートが書けているならば、経済学部にいる甲斐があろうというものだろう。またそうであって初めて経済学部としても諸君を「経済学士」として世の中に送りだせようというものである。

 しかしそういった経済学のおもしろさを味わえるようになるためには、ある程度の積み重ねが必要である。今、自分が楽しんでいる趣味についておもいおこしてみるがいい。どんな分野でもある程度楽しめるようになるためには地味な練習を重ねてステップアップしていく必要がある。ステップアップしてみて初めて新たなる世界が見えてくるものなのではないか? たとえばテニスでまともに打ち合って試合ができるようになるためには、フォアでもバックでもストロークを安定して打てなければならないし、ボレーだってできなければならない。またサーブも安定して入るようにならなければならない。しかし(天性の運動神経をもっている人は別だが)それらをできるようになるためにはある程度コツコツと地味に練習をしなければならないはずである。これはスポーツに限らず、音楽や他の技能でも同じことが言えるはずである。また知識を競うような趣味の分野でも同様のことが言える。いわゆる「ヲタク」の世界で傍からみれば瑣末な知識を競い合っている人たち(たとえば一九九七年ごろには「もののけ姫」やら「エヴァンゲリオン」のストーリーや登場人物についてどーしたこーした言っている人たちが大勢いた)の中でイッパシのコメントを発せられるようになるためにはやはりそれなりの知識の積み重ねが必要なはずである。

 そんな分野でさえそうなのだから、いわんや学問においておや、である。学問は過去の人類が築き上げてきた体系的な知識である。経済学のトバ口のまたトバ口でさえ理解するためには前提となる知識があるのだ。それを、なんの準備もなしにホホイノホイとばかりに理解できた、などと思い込んでいる奴は「フテエ根性」(知的傲慢、という人もいる)だとどやしつけられても仕方がないだろう。

 ともかくも卒業する時点でそうなっているためには、4年間はあまりにも短い。たくさんのことを学ぶ必要がある。必要なことをできる限り短時間で身につけていかなければならないのである。そういう忙しいはずの学生はいったい何をやっているのだろうか。そういうことを身につけることで忙しいわけではないのである。

 学生どもは自分たちは忙しい忙しいとホザく。ちょっとレポートを課すとブツクサと文句を言う。しかし何に忙しいかと言えば、サークル活動やら友達づきあいやらなのである。だいたい大学がヒマだとナメてかかっているからこそ、そういう予定を入れたりするのだ。

 また大学も大学なのである。学生に対してだんだん「優しく」なっていくのが近頃の傾向だ。受験生が受けやすいように、という名目で入試科目を減らすことで受験生を増やそうとしたあげくに、その学部で教えられるべき学問(経済学部なら「経済学」)を学ぶのに必要な基礎知識が欠けている子が入ってきてしまい、その対応に苦労していたりする(わが慶応の経済学部がそうだ、と言っているわけではない。あくまで一般論である。)。また入学後のカリキュラムも、キツくすると口コミで「入ってからタイヘンだ」と学生が敬遠する、ということで競うように大甘なカリキュラムにしていっている。(これもわが慶応の経済学部がそうだ、と言っているわけではない。あくまで一般論である。ついでに言うならば、一体このカリキュラムで学生に何を学ばせたいのか、よくわからないものだったりするのが困ったものなのだが。なんのためにやるかはっきりしないながらも「情報処理教育」を売り物にしようなどと考えている連中もいないわけではないのだ。)そんな風潮だからこそ、学生たちも大学というものはヒマなところだ、とナメてかかるのである。

 しかしある学問のオモシロサを理解してもらうためには、やるべきことは多い。とくに高校のカリキュラムも大甘になってしまった今、無駄な時間を過ごす余裕はない。

 高校で数学をやらなかった(名目上はやったかもしれないが実質的には捨てた)諸君にとっては、基礎的な数学は経済学のオモシロサを味わうためにはやっておいた方がいい(やるべき、と言い切りたいところだが、そこは世間のシガラミ、学部内のプレッシャーがある)ものなのである。たとえ、この「ワープロ・表計算の使い方」の講義を履修すれば数学の単位を履修しなくても卒業できるような仕組みになっていたとしても、だ。時間が限られているのならば、そちらを優先してやるべき…おっといけない、いや、やったほうがいいのである。

 ただし、ワープロ・表計算ソフトが、そして道具としてのコンピュータが、諸君にとって今後の大学の4年間を過ごすにあたって不要なわけではない。時代の流れで使わないわけにはいかなくなることは言うまでもないし、また使い方次第ではいろいろな方面で可能性をひろげてくれるだろう。ワープロソフトをうまく使えば、レポートを書くための効率はかなりよくなるだろうし、数値計算やグラフの作成等で表計算ソフトは強力なツールとして機能するだろう。使えるようになっていればそれはそれなりに御利益はあるのである。もし余力があるのならそういう能力を身につけておきたい、という考えは理解できないわけではない。

 ならばそのために「情報処理入門」という講義が存在する…はずである(現実がそうであるかどうかについてはいろいろ問題はある。)。だが「情報処理入門」の授業をきいていれば使えるようになるか、といえばそうではない。どんな名調子の講義であったとしても、どんなにやさしくかみくだいて時間をかけたとしても、きいているだけで「使える」ようになるとは私には思えない。また演習を混ぜたとしても、学生が講師の言うがままに操作しているだけではダメなのである。

 ではどうすれば使えるようになるか。

 何か困ったことがあったときに、「あ、これはこう解決すればいいんですよ」と解決策をすぐ出せる、もしそれで解決できない場合には、「じゃぁ、こうしてみたらどうですか」と別の方法をサッと提示できる、そういう世の中の「使える奴」を見ていて思うのは、「使える」ということには二つの側面がある、ということだ。

 一つはさまざまな「ひきだし」をもっている、ということ。たかがワープロ・表計算ソフトといえどもさまざまな機能がある。それらを知っている、ということだ。しかし「使える奴」はそれだけではない。

 局面を判断して、どのひきだしからものをとってくればいいのかがわかり、また一つのひきだしでたりないときに、さまざまなひきだしから道具を引きずり出して、組み合わせて使って解決する能力があるのである。「応用力がある」もしくは「問題を解決する能力がある」ということなのだ。

 「ひきだし」を増やす、つまりそういったソフトの機能を知るためには、ソフトのマニュアルや世の中に山ほどあるアホくさい解説本をみればわかることである。しかし機能をいくら暗記したところで引き出しは増えるが活用はできない。問題解決能力はそうはいかない。自分の頭で考え、悩み苦しみつつ試行錯誤を繰り返すことで身についていく、というのが経験の示すところである。もちろん悩み苦しまなくても問題解決能力のある人はいないわけではないが、それはよほどの切れ者であって、私を含めた大半のボンクラどもはそういう過程を経なければその能力は身につかない。ではそういった試行錯誤・苦悶・悶絶を経験することは可能だろうか。

 可能である。それは必要に迫られることである。必要に迫られていれば誰だって、世の中に山ほどある「わかる×××」「できる×××」といったテキストやらオンライン・ヘルブやらを一生懸命読み、ちょっとでもわかる奴に尋ねまくり、あーでもない、こーでもない、と試行錯誤を繰り返し、出来なければ必死になってなんとか仕上げようとするものなのである。できないままにしたら困るのは自分なのだから、それはもう必死でやるはずである。「火事場のバカ力」と諺にも言うとおり、必死でやれば思いもかけない解がみつかったりするものだ。そのようなプロセスでこそ問題解決能力は涵養されるのである。

 なぁんだ、講義なんか要らないじゃないの、と思うかもしれない。そう。要らないのである。自慢じゃないが、私なんざぁ「ワープロ・表計算ソフトの使い方」などという授業などいっぺんたりとも受けたことはないのだ。(昔はそんなアホな講義を大学が提供していなかった、ということもあるが。) でもなんとか使っているのである。

 とはいうものの、こちらも授業をもっているといういきがかり上、履修した学生には一応、「情報処理入門」という授業という大学の半期の授業でそういった能力をつけさせる方法を提示しなければならない。

 もちろん無から有は生まれないから、最低限の引き出し(機能)については教える必要はある。しかし機能はいくら教えてもキリがない。とくに最近のソフトは機能が多いので全部教えることなど不可能である。しかしそれよりも、それらをうまく組み合わせてどうやって問題を解決するのか、という「問題解決能力を涵養する」方に力点を置くほうが一見遠回りのようだが、結局、「使える」奴が増えていくのである。(もちろんそれに耐えられずに落ちこぼれていく奴も少なからずいることは否定しない。)

 その問題解決能力を身につけるためには、必要に迫られることが必要だ、と私は上で述べた。であるならば、短期間ではあるが、できるだけたくさん「必要に迫られる」局面を疑似的につくりだして、「わざわざ受講してくださった学生の皆さん」に体験させてさしあげればよい。「わざわざ受講してくださった学生の皆さん」にとっては、仕事上の必要がそう簡単に発生するわけではない。そこで、「レポート」という形で期限を区切って、なおかつ、出さないと「単位がもらえない」という形で必要を発生させてさしあげている、というわけである。

 もっと直接的で下品な言い方をするならば、ちょっとは自分の頭で考えなければならないような、諸君に苦悶・悶絶・試行錯誤を強いるようなレポートをガンガン課すぞ、ということである。

 もちろん諸君は、独学でもなんとか使えるようになれる内容のものを、「どうしても使えるようになりたーい」(電波少年の松本明子の口調を思い浮かべて読むこと)と思って、わざわざこの講義を受けに来るのだろう。であるならばそのようなレポートの嵐が諸君に降り注がれることを覚悟のうえで履修をしてもらいたい。あとからブツブツ文句を言うのはナシである。諸君は辛いことを承知のうえでこの科目を履修しているものと私はみなして授業をすすめていく。

 もしキツいのがイヤならばおやめなさい。

 これが私が最初に言っておきたいことである。


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